父が築き守ってきたプロテック 「人のために」の理念を貫きたい プロテック株式会社 代表取締役 小松 麻衣氏
- 40-50代
- 北海道・東北
- 女性経営者
- 後継者
「チャンピオンサケ」
その称号を手にしたとき思わず震えた。インターナショナルワインチャレンジ(IWC)2017において「南部美人特別純米酒」が見事「チャンピオンサケ」を獲得した瞬間だった。海外産を含めて390社から9つの部門に合計1245銘柄がエントリー。その中から、9部門の第1位(トロフィー)の蔵元がロンドンの表彰式に集まり、その中から、たった1つだけが「チャンピオンサケ」に選ばれるのだ。全銘柄の中の1位(チャンピオン)すなわちIWCのチャンピオン酒が世界一の日本酒と言われる理由だ。岩手県の二戸(にのへ)市にある蔵元南部美人の5代目久慈浩介氏を訪ねた。
IWCの部門別の1位はトロフィーと呼ばれる。日本酒では純米大吟醸、大吟醸、本醸造、純米吟醸、特別純米酒(→普通酒)、吟醸酒、純米酒、古酒、スパークリングの9カテゴリーのなかで私共の酒は純米酒の1位でした。その9カテゴリーの全チャンピオンの中から1位を決めるのが「チャンピオンサケ」だ。久慈氏はボクシングに例えて解説してくれた。
「言ってみれば、フライ級、ミドル級、ヘビー級、すべての階級で無差別に戦って勝ち取った統一チャンピオンなんです。」
IWC以外で日本酒が統一チャンピオンをとったことは過去にないという。世界中から出品があり、審査員の半数が外国人という国際的な品評会の中での1位というのはまさに快挙であろう。
写真)南部美人特別純米酒 IWC 2017 Champion Sake
出典)南部美人
「これは取ろうと思っても取れないんですよ。酒の実力ではあそこまでいけると思っています、部門のカテゴリまでは。そこからてっぺんにくるには、酒の神様が微笑んでくれるかどうかなんですよ。」
しかも、酒の神様がほほ笑んでくれたのは、値段1500円レベルのお手ごろ価格の純米酒だったのがこれまた凄い。「チャンピオンサケ」にだけ開示される評は、「シルクのようなビロードのような旨み」とあった。日本酒が正しく評価される時代になったということなのだろうか。
「変わってきているんだと思います。昔は純米大吟醸が評価されていました。2016年あたりから大きく嗜好が変わってきている。私達から言うと、分かってきてくれているという感じがするんですね。香りの高くて華やかな純米大吟醸だけが良いのではなく、やはり本質を見ることができる外国人審査員が成長してきているのではないかと思います。」
外国人審査委員も最近では料理と日本酒を合わせてどうなのかという評価点が審査の中に入っていると感じると久慈氏は言う。まさしく、さけ=酒が世界の基準で見られるようになってきたといえるのではないか。筆者がニューヨークに住んでいた2000年頃は酒=Sakeは「サキー」と英語風に発音されていた。今ではちゃんと「サケ」と発音されているという。
今やワインの世界でも市民権を得たといえる日本酒だが、その影には久慈氏ら若手蔵元の目に見えない努力があった。IWCに日本酒部門が出来たのも11年前、2007年のことだった。実は久慈氏ら若手蔵元は1997年ごろから輸出し始めていたが、当時は日本人の海外駐在員ですら日本酒のことを正しく理解していなかったという。日本から輸入した日本酒には防腐剤が入っていると勘違いしていたのだ。実は日本酒に防腐剤は全く入っていないのだが、そうした誤解が蔓延していた。そして、知名度がないブランドは日本食レストランから見向きもされなかった時代が長く続いた。
「『南部美人?こんなの知らないよ。余った酒なんか持ってくるな。日本で売れない酒をアメリカに持ってきたからといって売れるとは限らないぞ!帰れ帰れ!』と言われましたね。」
そういう辛い経験を経て、やはり、現地の人に飲んでもらわなければ日本酒は広がらないな、と強く思うようになった久慈氏。どうしたら海外の人に日本酒を飲ませることが出来るのか、考え抜いた末に4つの条件にたどり着いた。
「1つ目は日本が好きであること。そもそも日本を好きじゃないと日本酒なんか飲んでくれない。2つ目は健康に気をつけていること。3番目はある程度お金に余裕のあること。この3つそろうとお寿司食べるんですよ。でもまだ飲むのは日本茶なんですよね。4番目の条件はワインを愛して飲んでくれていることです。この4つの条件がそろって初めて日本酒を飲んでくれる。」
海外の人が見る日本酒の「ものさし」は日本人のそれとは全然違う。久慈氏はワインのものさしの人たちに向けてのPRをやらねばいけないと気付いたという。世界中の人に日本酒を愛してもらうためにはどうしたらいいのか。日本酒の大きなムーブメントを起こすには、「スコールを降らせる」にはどうしたらいいか、考え抜いた。そして、世界の人が最も注目するワインの場に出ていこう!と決めた。
「2000年代後半のことです。イギリスのWSET(Wine & Spirit Education Trust )というワインスクールのソムリエたちから、日本酒を勉強したいという話が来たのです。だったら僕たちが行って教えましょう、ということになり蔵元の有志が集まって教えることになりました。」
「これがきっかけとなって日本酒のセミナーを始めるんですよ。富山県の桝田酒造とか神奈川県の泉橋酒造とかそういう人たちが行ってセミナーをやりました。そうしたらたまたま受講者の中に世界に370人(2018年8月現在)しかいないマスター・オブ・ワインの中で、最年少でこれをとった人がいて、その人が『日本酒はものすごく面白い、もっと知りたい』と言ってくれたのです。日本酒に”はまってくれた”その人こそ、実はIWC=インターナショナルワインチャレンジの最高責任者だったんですよ。」
なんという幸運!いやそれを引き寄せたのは久慈氏ら若手蔵元たちの積年の努力に違いない。
「その人にIWCの中に日本酒部門作れませんか、とお願いしたら、『オッケー』と。すごいでしょそれ?」
ワインのチャンピオンを決めるIWCの中に日本酒部門ができる。これこそ、久慈氏のいう「スコール」だ。WESTで始めたセミナーも正式なものとして世界中に広まっている。そしてこれからは「国際展開教育」が必要だと久慈氏は説く。
「日本酒って何?という人たちに日本酒がどういうものなのか伝えていく機会をもっと増やさなくてはいけないと思っています。JAPAN SAKE ASSOCIATIONの『SAKE EXPERT」という資格も今ブラジル、タイ、イタリアでやっている。そういうところと組んでもっと日本を知らせて行かなきゃいけない。」
さらに政府のクールジャパン戦略も追い風になっている。海外で何千人も集まる試飲会やイベントがものすごい勢いで増えているという。
「僕は17歳までは全然家業を継ごうなんて思っていませんでしたからね。他人と暮らす家ですからね。杜氏や蔵人のおじさんたちが10人ぐらいうちで寝泊まりしているんですよ。家の食堂と杜氏さんたちの食堂は扉1枚隔てて隣なんですから。晩酌は毎日やるので家の中は酒くさいし、町では南部美人の息子って言われて。こんなの嫌だと思っていた。」
当時教師になりたいと思っていた久慈青年。転機は高校2年生の時に訪れた。アメリカに短期留学に行ったのだ。日本人が誰もいないオクラホマ州の田舎でホームステイを余儀なくされた。その家のお父さんが無類のワイン好きだった。お土産の南部美人を飲ませたところ、一言。「これはうまい!白ワインよりうまいじゃないか!」日本酒の美味しさに目覚めたお父さんはこう言ったそうだ。
「お前、こんな素晴らしい酒を作る蔵元の息子だなんてすごいじゃないか!当然お前、酒蔵継ぐんだよな?」
蔵元の息子に生まれたことが如何にラッキーで凄いことなのか、毎日耳元で言われていれば洗脳されようというもの。こうして久慈青年は帰国後、一大決心をし、東京農業大学醸造科に進路希望変更した。そこで偉大な恩師に出会った。それが小泉武夫先生という日本の発酵学の権威だった。
「授業の最後に先生が必ず今日はこの店に行きなさいって店の名前と住所を書くんですよ。先生に聞いてきたと言えば日本酒を3000円で飲み放題にしてくれるからと。」
酒を飲んで学べ、ということか。豪快な先生だが、同期の蔵元の息子たちと毎日飲んだくれた久慈青年。「十四代」など、稀代の銘酒と出会い衝撃を受けた。南部美人を根底から変えなくては!蔵元が退路を断って本気になって酒を造らなくては!そんな熱情に駆られた久慈氏。早く地元に帰りたかった。大学を卒業してすぐに蔵に戻った。父親の後を継ぐために。
大学を出たばかりの久慈氏。家を継いで父親との軋轢はなかったのだろうか?
「そりゃもう、とんでもない大喧嘩ですよ。父親のやってきたことの全否定ですから。」
久慈氏が帰ってきてびっくりしたのが、蔵が「三増酒」を作っていたこと。「三増酒」とは「三倍増醸清酒」のこと。戦後、コメ不足の時代に作られた酒で、醸造用アルコールや糖類で水増しされたものだ。元の清酒の量の3倍まで水増しが認められたので三増酒と呼ばれた。それを他の水増し清酒とブレンドして売られていたのだ。若き5代目には到底許すことが出来なかった。激高した。
「親父、くそ、このやろう『三増』って何やってんだと。なんでこんな酒、家で作ってんだよ、ふざけるな!」と、もう大喧嘩です。父親はこう言いました。『お前が大学に行けたのは全部この三増のおかげだ!』これはもう何も言い返せなかったですけど。」
しかし、久慈氏はこの「三増」の製造を父親に黙って止めてしまった。その結果は当然・・・
「怒られた怒られた。『なにやってんだ!!!』と。で『正しくないことは俺はやらない。だったら出てく!』といったら、『じゃあ、出てけ!』と怒鳴れました。」
そんなことの繰り返しだったという。「炭素ろ過」もそう。酒にトラブルがある時、それを矯正する日本古来のすばらしい技術だが、何の問題もない酒に、単に酒の色を薄くするためという理由で全酒に行われていた。5代目はこれも酒の持つ味をそこねる、として止めてしまった。
輸出もそう。1997年から輸出をすると言ったら、父親は猛反対。外国人に日本酒の味なんかわかるわけがないと。延々と続く親子の衝突。正直しんどくないのだろうか?
「今は、自分が社長の立場になったからよくわかります。父親というものはブレーキをかけなきゃいけないわけですよ。アクセルしかない車は車にならない。会社も同じだな、と。」
「僕もやっていくうちに、(チャレンジは)成功させなければだめなんだなと思うようになりました。炭素ろ過も止めた後、親父はろ過してないちょっと黄色い酒を飲んで美味しい、なんて言っているわけですよ。なんだ、全然大丈夫じゃん!と思った。酒造組合の席で会長である親父が、『みなさん、炭素ろ過をしないようなお酒を作れるようにならなければ一流じゃないですね』なんて言ってる。どの口が言ってんだ!と思いましたね。輸出だってそう。輸出がうまくいき始めたら、『皆さん日本酒の需要はどんどん落ちていくだけです。ニューヨークとかイギリスとか広いところを見ていきましょう』なんて言ってる。(笑)」
成功すれば親の考え方も変わってくる。だからこそ成功させなければいけない。
「いつも背水の陣ですよ。失敗が許されない。それは親父の顔に泥を塗ることになる。だから必死だったんです。」
ブレーキを踏んでいるようでいて、息子に好きにやらせていた先代は偉かったと思う。それが家業というものなのか。
「100年、200年続く会社の秘訣なんじゃないかなと思います。やはり家業というのは責任と意地のぶつかり合い。覚悟と覚悟のぶつかり合いだと思います。それが昇華すれば素晴らしいものができてくる。」
久慈氏は日本酒の可能性を信じている。特に若い人たちが日本酒を支持している、と話す。
「今の20代は一気で飲むこと知らない。イッキコールってなんですかって世代。アルコール摂取量がぐんと減っています。でも潜在的に日本酒を”おいしい酒”として趣味で日本酒を選んでいる人達なんですよ。」
平和酒造の4代目山本典正さんが始めたイベント「若手の夜明け」には大勢の若者がカップルで来る。2人で日本酒を楽しんで写メを撮りインスタに上げる。そんな時代だ。日本酒の価値は確実に20代、30代の中で上がっていると久慈氏は言う。彼らが30代、40代になればさらに日本酒の可能性が広がるのではないだろうか。
最後に、これから家業を継ごうとしている人へのアドバイスを聞いた。
「うちの親父はできるだけ会社の借金とか減らして渡したいと言ってくれた。でも、突然の事業承継ってあり得ますよね、病気にかかったりトラブルがあったり。」
「親父は『俺は遺言を正式に書いて信託してある。だから心配するな』と俺に言ってた。おじいちゃんも自分がいつ亡くなってもいいように遺言も保険も何もかも準備していましたね。親父と喧嘩した時は、『遺言書あるんだから早く死ね』って言ったけどね。(笑)」
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