父が築き守ってきたプロテック 「人のために」の理念を貫きたい プロテック株式会社 代表取締役 小松 麻衣氏
- 40-50代
- 北海道・東北
- 女性経営者
- 後継者
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242年続く、北関東唯一の「酢蔵」をご存知だろうか。「酢蔵」。そう、「酒蔵」ではない。お酢を製造しているところだ。
それが、栃木県宇都宮市に蔵を構える中野嘉兵衛商店。天明元年(1781)創業。実に242年の歴史を誇る。
同県内で「造り酒屋」として創業したのが始まりだが、明治初期、自由民権運動の激化に巻き込まれた後、追い打ちをかけるように不運な火災にあった。作った酒が酸っぱくなるなど廃業の危機に立たされた8代目嘉兵衛は、意を決して残った酒を酢に造り変え、新たに酢蔵として再出発した。
明治20年頃、宇都宮に移転。その後も空襲により、またしても廃業の危機に立たされるが、10代目嘉兵衛が再興。現在の場所に移り住んだ。
現在の12代目は、11代目を継ぐはずだった父親が早くに亡くなり、若くして事業を引き継いだ(登記上の代表は母親)。どのようにして伝統を守りつつ、時代に合うビジネスを展開しているのか。12代目(正式な承継は23年春予定)中野浩行氏(以下、中野氏)に話を聞いた。
歴史ある酢蔵の長男として生まれた中野氏。幼少期から継ぐという意識はあったのか。意外にも、「若い頃は事業を引き継ぐ気はなかった」という。
それもそのはず、中野氏は、父親からずっと「継がなくてもいい」と言われていたのだ。だが、その父親は、中野氏が高校に上がった年に突然亡くなる。当時まだ元気だった先々代の祖父と母親が蔵を経営し、中野氏も少しずつ手伝うようになったが、承継の意識はなかったという。
「自分がやりたいことを見つけ出していた時期でしたが、(継ぐという)想像はしていなかったですね」
その頃やりたかったことは、何とボクシング。学生の頃からスポーツが得意で、趣味で始めたボクシングの世界を志すようになっていた。
「本当は東京のジムに行きたかったが、そうもいかず、地元のジムでやりながら家業の手伝いを続けていました。自分がやっていくという自覚はないまま、母親が大変だろうという思いで手伝いをしていましたね」
すべてを放り投げて上京する選択肢もあったが、「そこまで度胸はなかった」と中野氏。「母に苦労をさせている分、自分だけ投げ出すわけにもいかなかった」。
プロボクサー4回戦まで進んだ頃、家業を切り盛りしていた祖父もこの世を去ってしまう。その頃には、中野氏も仕事を大体覚えて、引き継ぐことができる状態だった。
ボクシングから身を引き、改めて家業に専念することを決めたわけだが、弱冠21歳。なかなか気持ちが追い付かない。
「自分で決めたのではなくて、誰かにやれと言われたわけでもない。父や祖父がいなくなって、周りの人は腫れ物に触るような態度で。自分の気持ちを外に出すこともできず、気持ちの整理をつけるのは難しかった」
覚悟が決まらないまま、モヤモヤした気持ちは、30歳くらいまで続いた。
なめられてはいけない、と口髭を生やし、構えていた。その髭を剃ったのは30歳になったころ。ようやく肩の荷を下ろすことができた。
「それまで今までのやり方を踏襲してきて、そこから逸脱してはいけないんだと歴史を勝手に背負ってしまっていた。今思うと、なんてつまらないことを考えていたんだろう」
ある時、友人に「240年の歴史を背負って辛い。人生は戦いだ」と話したら笑われた。自分もつられて笑ってしまった。
つきものが落ちた瞬間だった。
「そんなこと思う必要もないんだ。何をやってもいいんだ」
そう思えた。
店で立ち飲みのバーを始めたのもこのころだ。新しく何かを始めることに臆病だった自分との決別の時が来た。
吹っ切れた中野氏は次々と商品開発に取り組んだ。
餃子の街宇都宮ならではの「宇都宮みんみん 餃子に良く合うお酢」は、「宇都宮みんみん」の伊藤太朗社長と共に商品化を実現した。
伊藤太朗氏は「宇都宮みんみん」の先代の息子。中野氏と同い年で一度上京したのち、ちょうど代継のために宇都宮に帰ってきたころだった。「宇都宮みんみん 餃子に良く合うお酢」は、餃子とセットで楽しめる商品に成長した。
さらに、餃子の町のご当地ハイボール「宇都宮酢っきりハイボールの素」を開発した。
始まりは、「酢っきり酒場」と名付けた立ち飲みイベント。自社の店頭で開催した。お酢を使った料理などを提案、酢蔵を見学するイベントも開いた。
すると人気を呼び、客が店内に入り切れなくなるほどに。地元の新聞等メディアも取材に来た。
酒場で、甲類焼酎を炭酸で割った、いわゆるチューハイに酢を足したシンプルなものを提供した。餃子に合わせて飲むと、酢の酸味が脂身を流してくれる。お客さまに出したら、『これが1番うまい』『スッキリしてる』と大好評だった。
「宇都宮酢っきりハイボール」という名前をつけ、商標も取った。
次は売り方だ。既存商品のもろみ酢のボトルのラベルを大胆に変えて別商品のようにして販売した。
「あえて全く違うデザインにした。自分の顔をラベルに入れるのは希望ではなかったが、店主の覚悟を見せるために外せない、とデザイナーに言われて・・・」とはにかむ。
評判は上々、宇都宮市内20店舗ぐらいの居酒屋をはじめ飲食店に「宇都宮酢っきりハイボール」の一升瓶が置いてある。
「そこで飲んだお客さまがうちの店に来て、『ご主人の顔が入ってる方を』と買いに来てくれる。ちゃんと伝わっているんだな、と思う」。
これからの中野嘉兵衛商店について聞いてみた。
「今までやってこなかったことがたくさんある」と話す中野氏。
お酢を使った加工食品に関しては、既に話が進んでいる。
ピクルスにノンオイルのドレッシング等、夢は膨らむ。
お酢は、少量を使って全体の味をまとめる調味料だ。
「食卓には普通、醤油とかソースは置いてあるが、お酢はない。どうお酢を登場させようかと考えて、食べ方の提案をしていく。ポテンシャルのある食材だと思うので」
酢の成分である酢酸は、血液の循環を良くすることで、血圧を下げる効果があるという。また、美容効果や食欲増進も期待できるとされている。現在、エビデンスを集めているところで、「お客さまにきちんと説明できるようにしたい」という。
「私も50歳を迎え中高年の仲間入り。まわりも病気や薬の話をし始めた。健康というキーワードで(酢の需要を)訴えかけていきたい」
中野氏には、10歳と5歳の息子がいる。むろん、継がせたくないわけではない。
「継ぐ・継がないを私の口から息子に言うつもりはない。でも、私と同じ道を辿ってしまうのかな、と思うと難しい」
と複雑な心境を吐露した。
長男と事業承継について直接話すことはないが、どうやら学校の先生には家業について話しているらしい。
自身が父親から事業を継げとは言われなかったことで、逆にモヤモヤしたのでは、と問うと、
「じゃあ言った方がいいですね、”すっきり”と」と、笑った。
まだまだ50歳。働き盛りといえど、父親が42歳で亡くなったこともある。
「お酢が健康にいいと売るなら、私が健康でなければ説得力がない。なるべくお酢を飲んで、自分自身が1番健康でいなくては」
そして、最後にこう語った。
「息子には他の色々な世界を見てから来てもらった方がいいと思う。もし他にやりたいことがあるのであれば、行ってもいいと言えるように準備をしたい。やれと言うのではなく、やりたいって言ってもらえるように。背中を見せるという意識はないが、どれだけ親父が家業を楽しんでいるかという姿を今のうちに見せておきたい」。
お客さまの声をお聞かせください。
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