「畳屋で本当によかった」家業を継ぐのは、夢を諦めることではない 株式会社徳田畳襖店 代表取締役社長 徳田 幸生氏 専務取締役 徳田 直弘氏
- 20-30代
- 九州・沖縄
- 後継者
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北海道札幌市で社会福祉に関わる業務ソフトの企画開発をするプロテック株式会社は、鈴木文人会長が37年前に起こしたソフトウェア会社だ。2023年に事業承継を受け代表取締役になった小松麻衣氏は、『世の中の役に立つこと 人様に喜んでもらうこと 少し儲かること』という会長が掲げた社是を胸に、「誰かのための あなたのために」をモットーに事業を発展させるべく奔走している。会長の思いを継ぎながら、自分なりの経営を模索し、一喜一憂する日々だ。
鈴木文人会長は、もとは会計士として社会福祉法人の特殊な会計に関わっていた。
「福祉や介護の現場で働く人たちが、経理などの業務に時間を取られているのを見て、自分のようにパソコンが苦手な人にもわかるシステムを作ればみんながもっと楽になると考え、起業したと聞きました」
創業者である父の信念は「あるとウレシイ」サービスを作るという熱い思い。その志は、どんなことがあっても守り続けたいと代表取締役の小松麻衣氏は言う。
「いまだにそろばんで計算するようなアナログな父が、他に先駆けて社会福祉法人対応の会計システムを作ることができたのは、現場をよく知っていたことと知恵と行動力があったからだと敬服しています」
プロテック株式会社が創業したとき、小松氏は小学生だった。仕事にのめり込む父の姿をよく覚えている。
「ある日家に帰ると、血だらけでソファに横たわる父を見つけました」
困っている、相談したいという電話があると広い北海道のどこへでも車で駆けつけて、親身になって解決策を編み出すまで帰ってこない。
「睡眠時間を削ってまで、誰かのために奔走し続けていました。そんなある日の帰路、事故に巻き込まれ、大けがをしてしまったのです」
自分たちの見えないところで大変な思いをしながら会社を経営する父は、こんなに無理してまで頑張っているんだと思った。
「父はそんな苦労を娘たちにはさせたくないと私たち3姉妹には会社を継がせる気はなく、社員の中から後継者を育てると言っていました」
小松氏は北海道大学法学部を卒業し、弁護士になるべく司法試験を受けていたが叶わなかった。そんなとき、父から会社を手伝うように言われ雇ってもらった。
「ITのことは何もわからずに飛び込みました。何もできない平社員と言われ、やる気だけが空回りする日々でした」
ある日のこと、父から岩手県にある社会福祉法人に出向するように言われた。
「システムを全部入れ替えるから、誰か常駐で人を出してほしいという依頼でした」
その町の社会福祉法人は、障がい福祉や介護福祉、放課後等児童デイサービスなどすべてを手がける組織だった。
「そこで見聞きしたことが、今も大きな糧になっています。実際の介護現場に入り、入浴車に乗って汗をかきながら介助をする実務もさせていただきました。やはり人は心と心でつながれるのだと実感できたのも、得難い経験になりました」
その現場で働いたからこそ思いついた事業構想やシステムのアイデアを会社に戻って提案したが、社員のだれにも聞いてもらえなかった。
「当時はまだ『女性はパソコンが苦手』という先入観を持たれていて、せっかくの事業拡大のチャンスを生かせずに終わり、とても悔しい思いをしました」
その後、研究者の夫との結婚を機に静岡で暮らすことになり、結局会社を退社して専業主婦になった。
「このままのびのびと男子3人の子育てに全力投球すれば、それでいい人生なのかなと思って過ごしていました」
「楽しくなければ仕事じゃない」がモットーのプロテックは、社員同士の風通しがよく、まるで家族のような温かい関係性を大切にしてきた。
「社長宅でBBQをやるのも恒例行事のひとつでした」
ある夏のこと、里帰りを兼ねて帰省し参加したBBQの場で、当時の取締役から「会社に戻ってきませんか」と誘いを受けた。
「入社当時、相当厳しく当たられた人からの言葉に驚きました。しかも父が後継者にと口にしていた方でした」
彼いわく、体調が思わしくないうえに、社長交代は荷が重いのだという。
「監査役の母に伝えるとその話を気に入り、とても乗り気になりました。実はプロテックの立ち上げの時も、迷う父の後押しをして、決意させたのは母でした。ここぞというときに母の影響力は大きいのです」
こうして「麻衣が戻ってくるからね」という鶴の一声で、小松氏は会社に戻り後継者として再び働くことになった。
もう一人、この大きな決断に大賛成をして、背中を押してくれた人がいる。それは、夫の母だった。
「夫の実家は造船会社を経営していたのですが、結局後継ぎがいないので会社をたたむことになりました。職人さんの再就職や、お金のことなどとても苦労をしたようで『あなたが継げるなら、それがいちばんいい』と応援してくれました」
意外なところから援護射撃をもらい、忙しい夫にはすべてを決めてから事後報告することになってしまった。
「今では月に一度、子どもが学校に通う東京で家族が集まっています」
実の母と義理の母に支えられ、子育ては妹2人の協力を得て北海道に戻って会社を引き継ぐべく大きな一歩を踏み出した。
結局、父からは戻って来いとか継いでほしいという言葉は一度もでなかった。
「母さんが言いだしたんだから、俺は頼んでないというスタンスでした。だからぎりぎりまで本人は譲る気はなかったと思います。でもそのころ父にパーキンソン病の初期症状が見つかり、銀行からも『こんな面白い会社を残さないのはもったいない』と言われたこともあり、事業承継を進めることになりました」
実際に社長業を担ってみると、今まで見えていなかった父の力を感じることが多くある。
「父も私もシステムを作れるわけではありません。でも父には知恵と知識と何より決断力があります。即断即決で経営していた父の判断力の確かさや思い切りの力強さは、未だに私にはないと知る毎日です」
トップダウンでぐいぐいと会社を引っ張っていく力強さは、とてもまねできない。ただ自分なりに、みんなの意見を聞きながら経営をしていく新しい形がつくれたらと考えている。
「私は子育てを経験していますから、一人だけに負荷がかかるような働き方を解消したり、在宅ワークを推進したりすることは得意だと思います」
男性も遠慮なく育休を取れたり、看護や介護休暇を取得できたりするようにしている。
「でもね、コロナの時にフルリモートにしたら、寂しいからってみんな会社に来ちゃうんですよ。いい会社でしょ?私の口癖は、『やってみないとわからない。ダメだったらやめればいい。妄想はタダだよ』です」
そんな小松氏を陰で鈴木会長が応援してくれていると知ったのは、社員の口からだった。
「私のいないところでは、褒めてくれているらしいです。父子を取り持って、そんなことを伝えてくれるなんて、いい社員たちです」
プロテックの営業範囲はとてつもなく広い。
「北海道ですから、100キロ圏内は近所だねという感覚です」
その範囲をもっと拡大したいと、パワフルでアイデアマンの鈴木会長は今も足しげく東京に通っている。
「本州にも営業所を構えて、技術を使って障がい者雇用を後押しするようなサービスが提供できないかと動いてくれています」
自分も会社の代表になって出会う人が多彩になり、活動範囲の広がりを感じている。
「代表の肩書きだから会ってくれる人がいたり、全く違う業界の方と知り合えたり、北海道スタートアップスタジオ(HSS)のプレゼンに参加させてもらえたりと、世界がぐんと大きくなりました」
そんな活動の中生まれたのが、福祉事業所で作っているお菓子のリブランディングだ。
「北海道クッキーと名付けて、障がい者アーティストの方のイラストを使ってパッケージを作りました」
また、手放したいという話を聞いて社会福祉法人が営むパン事業所を引き継ぎ、運営を始めた。
「こんなにおいしいパンを作っている職員さんたちを雇う人がいなくなると聞いて、事業を引き受けました。課題も見えてきたので新商品開発を産学連携でできないかとスピード感をもって動いています」
あれもこれもと手を広げすぎて仕事になっているのかと父に苦言を呈されることもあるが、「人のためになることなら、いつか何かにつながる」と複数のプロジェクトを掛け持ちしている。
最近、長年お付き合いのある取引先から言われて、感激した言葉がある。
「先代はわれわれの幸せをとことん考えてくれていたから、御社一択だった。その同じ気持ちを継いでいるあなたがやっている会社なら、これからも御社一択だよ」
目がしらが熱くなった。思わず「同じ思いでやります。いつでも呼んでください」と口にしていた。
「父がずっと守ってきた『誰かのために』という理念をもっともっと大事にして、会社を経営しようと改めて思いました」
帰社して父に感謝とともに直接伝えたら、とても喜んでいるように見えた。
「誰しも褒められたいんですよね。私も気が強いので常にはなかなかうまく口にできないんですけど」
名言が多い父の口癖「買わなきゃ当たらぬ宝くじ、言わなきゃわからぬ愛してる」をまねして、これからはあえてもっと父や社員、家族への感謝の気持ちを言葉にして伝えようと思っている。
「やっぱりとてつもなく父の影響を受けてるんです。そして尊敬していなかったら、会社なんて継がない。実はファザコンなんだと自覚しています」
お客さまの声をお聞かせください。
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