インボイス制度導入でどうなる? 税務調査の方針と留意すべきポイント
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1970年にシャッター修理業を先代社長の市川文胤(ふみたね)氏が立ち上げ、86年に法人化された株式会社横引シャッター。従来上げ下げしていたシャッターを横開きできるよう開発して、「横引きシャッター」として特許を取得したのが文胤氏だ。2代目の慎次郎氏は2012年に社長を継ぎ、「社員は家族」の幸せ経営を先代の遺志として守り続けている。「三方よし」を実現した横引シャッターの「会社は社員のもの」という企業理念の実際を聞いてみた。
空港やショッピングモールを歩くと、閉店している店のシャッターが横に引かれながら、蛇腹に畳まれ開店する光景を目にすることがあるだろう。あれが縦に下すシャッターの故障や使い勝手を改善しようと開発された「横引きシャッター」である。
「創業者の父はシャッター修理から事業を拡げたアイデアマン。素晴らしい横引きのシャッターを開発してくれましたが、なかなか次のヒット商品が生まれるものではありませんでした」
開発費が累積し、負債が9億円に膨らみ、税務署や銀行、取引先を相手に支払い遅延の交渉をしたり、新しい営業先を開拓して売り上げを上げるなどして赤字を解消した。八面六臂(ろっぴ)の活躍をした慎次郎氏が一番うれしかったことがある。
「このまま頑張れば、開発メーカーで無借金経営を目指せるね、と父にいうと笑いながらそうなれたら良いな、と返事をしてくれたんです。あれが先代との約束だと思ってます」
「人喜んでこそ商いなり」。「まずは困っている相手を助けてあげるのが先で、利益はあとからついてくる」という先代の教えを守りながら、今も成長し続けている。
「ここに出てくる人とは、商売相手はもちろんのこと、協業企業の人、そして、何より会社で働く社員やその家族も含む全ての人なんです」
人を大切にする姿勢が、横引シャッターの経営の強さの礎になっている。
「うちには定年はありませんし、雇用条件や形態もずっと変わらず、退職するまで昇給し続けます。それに昇給は随時行いますし、年齢、性別、国籍も多様で、ライフスタイルにあわせて働いてもらっています」
「ルールよりモラル」「お互い様精神」を重視しながら、社員にあったオーダーメイドな働き方を実現して、2019年度まで5期連続して売り上げをアップした。
「大企業にはルールが必要でしょうが、我々中小企業に大事なのは、一人一人の思いです。全員と向き合いながら、会社の思いも繰り返し伝えていく。それをさぼることは決してありません」
毎日昼に配信する社長からのLINEメッセージもその表れだ。少しでもおかしいと思ったこと、言わないといけないことはすぐに伝える努力をしている。
「忙しい工場の現場でも昼休みに1画面で読めるように文章量を工夫して送っています」
前回のインタビューから比べて、体重48キロ減。「胃を9/10切除するという減量手術を行いました。痩せたおかげですこぶる快調です」
先代から言われて守っていることはまだある。「社員を絶対に首にしないこと」だ。
「腕もいいけど、品もある武士のような集団になりたいと願って『山賊から武士へ』というテーマを掲げています。会社が成長するにつれ、その風土や空気も変わります。その中で辞めたくなる人がでるかもしれない。けれど、決してこちらから首を切ることはありません」
そのことを「水が変わる」という例えで教えてくれた。
「少しずつ水が変わっていくと、今までドジョウだけがいた川に、鮎が住むようになり、やがては鮎だけが住む清流になるのです」
新しい風土になじめない人が出てきたときは、どうしたら一緒に仕事ができるか?何を変えるか、変えないかを一緒になって考え、問いかけ続ける。
「残念ながらうちの会社を去ることになった人にも、数年たったころに『また一緒にやらない?』と声をかけています。それで戻ってきてくれて、働いている人もいます」
もし病気になったとしても、雇用はやめず、給料は支払い続けるという。
「たとえば、がんになるとみんな、会社にも家族にも『ごめんなさい』って謝るんです。でも病気になった人が謝るのはおかしいでしょう?その人が望むなら、可能な範囲で働いてもらって、できるだけのお給料を支払います」
このことは全社員に朝礼で伝えるが、みんな快く理解してくれる。
「社員のことは家族だと思っています。家族だったら多少の負担はお互い様って受け入れますよね。会社にとってかけがえのない人を失いたくはないのです」
がんになっても雇用し続ける取り組みが評価され、東京都から「平成29年度『がん患者と仕事の両立への優良な取り組みを行う企業表彰』優良賞」を受賞した。
先代の工場長であった大友有治さんが、がんに罹患したときのことだ。家族は本人には知らせずに、市川氏に会いに来た。
「本人がもし『働きたい』というのなら会社に来させてくださいとご家族にお願いしました。ずっと席は残しておくし、お給料は払い続けますと伝えました」
その人が一年間休んでも会社が払える金額を算出し、当人に必要な金額も聞き、貢献度も配慮したうえで、最終的に給料額を決めるのだという。
「みんなに病気のことを公表してよいとなったら、朝礼で全員に今後はできる限りの出社になることと、金額までは口にしませんが、給料を支払うことを伝えます」
大友さんが、次の工場長にと考えて、口説き落とされて戻ってきた羽賀立臣(たつおみ)さんは言う。
「大友さんと昔一緒に働いていたことがあるんです。この仕事はちょっと特殊な技術も必要なので、大友さんはつてをたどって私を必死に探してくれました」
大友さんの工場長としての責任感の強さを近くで見てきた。
「どんな難しい問題も必ず解決していました。だから社長の信頼が厚くて、工場はすっかり任されていました。会社を自分の家と同じくらい大事に思っていたと思います」
大友さんは、治療のために入退院を繰り返しながらも、退院するとすぐ工場に顔を出し、みんなと一緒になって働いた。
「毎回会社に来たら、みんなの仕事を見て回り、面倒をやいていました。日曜出勤もして納期を間に合わせていましたね」
社長から頼りにされ、自分の仕事があることが「生きがい」だったという。大友さんは余命4カ月と言われながら、2年半延命して、亡くなる2週間前まで仕事をしていた。
「その人のやる気を大切にしてくれる、すごく優しい会社ですよ。だから社員が一致団結する。社長としての考え方が大きいんです」
総務経理担当の高折治美さんは、4年前に会社の健康診断で乳がんが見つかり、手術。化学療法を続けながら、週に一回出社して仕事を続けている。同僚の粟田厚子さんは言う。
「社長が女性はみんな婦人科検診も追加で受けたらと言ってくれて、わかったんです。女性特有の病気ですからひとごととは思えませんでした」
つらい治療で髪が抜けてしまった高折さんだったが、「出社すると、みんなが私を笑顔にしてくれる」と会社に来るのを励みにしているという。
「会社から元気をもらってるって、よく言っていますね。でも辛かったら早く帰ってねって言うんですが、楽しいから来るのよって」
同じく同僚の熊取谷明子さんは、笑い合えるのが一番の薬という。
「うちは、もうみんな和気あいあい。言いたいことを大きな声で言って、よく笑うんです。仕事の内容はちょっと違うけど、お互いに補えるから大丈夫なんです」
会社には、有給休暇の限度日数というものがない。つまり休みのすべてが有給休暇になるのだ。休みの多い人のことをずるいと思ったりしないのだろうか?
「ずる休みなんかする人は、ここにはいないんです。用事があるから休むんだから、お互いにフォローし合います」と栗田さん。
去年コロナがまん延し始めた時に、マスクや消毒薬が不足した。市川氏は、すぐに手配を進め、社員とその家族の分まで用意して、配布した。
「店で品切れだったから本当に助かりました。社長はいつも社員に気を遣いすぎて、疲れちゃうんじゃないかなっていうくらい、考えてくれています」と熊取谷さんは言う。
そして定年がない横引シャッターの最高齢社員が、平久守さん93歳だ。毎日自転車で30分かけて通勤してくる。
「社長が、平久さんの駐輪場だけ自転車が停めやすいように広めのスペースを取っています。ほかの人が使わないように大きく名前まで書いてくれたんですよ」と栗田さんは笑う。
ほかにも雨の日はすべると危ないので出社しなくてよいとか、冬は明るいうちに帰れるよう15時には終業など、平久さんのための配慮がされている。
「でも、少しの雨だと工場に来ちゃうのよね。仕事をしたいから」と熊取谷さん。
月に2回の健康診断も、会社から義務付けられて、今日も元気に平久さんは働き続けている。
市川氏が、片腕と頼む営業部長の佐竹裕二氏と約束していることがある。
「管理職以上は、社員から話しかけられたら、どんなに仕事が忙しくても断らないこと。だからいつ、何を言われても笑顔で応対しますよ」
時には、「あー今?」と思うこともなくはない。でも社員の側からはこんな声が聞こえてきた。
「一日に一回は必ず報告します」「今ダメだって言われたことがない」「毎回必ず笑わせてくれるから報告が楽しい」
社員からクレームが出たら終わりだと思ってやってきた。その前にこちらから先に声をかけるくらいでないとダメだという。
「社員の聞こえてこない声を聴けというのは先代の教えの一つですから」
そんな先代から仕事を引き継いでから、すべてを任せてもらえるようになりたいと頑張ってきた。最近頼まれて事業承継の話をする機会が増えたが、その時に感じる違和感があるという。
「よく、親父が事業のバトンを渡してくれないとか、親父から経営を奪わないといけないという2代目がいるのですが、考え違いをしていると思います」
父親からすれば、バトンを渡したくても怖くてまだ渡せないのだ。まだ、自分がそういう存在になれていないと謙虚に考え、もっと努力や工夫をすべきだという。
「後継者の側が、そこに気がついて自分を改善できてこそ、会社を引き継げる資格があるのです」
自分が後悔していることがあるからこそ、今になっていえることだ。
「先代の仕事をすべて奪わないで、ひとつでいいから役割を残しておいてあげればよかったと、今になってしみじみ思うのです。あのときはわかってあげられませんでした」
今後の目標は、業態変化も視野に入れた開発のために協業を進めたり、海外マーケットに打って出ることだ。
「うちにいる技能実習生や外国籍の社員たちにジャパニーズドリームをつかめとはっぱをかけているのですから、私も新しいことに挑戦しようと改めて経営の勉強を始めたところです」
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