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新発想で業態変革 躍進する石坂産業

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埼玉県入間郡三芳町の上富、所沢市の中富、下富の3地区が交わる三富地区に、東京ドーム約4個分に相当する緑豊かな森がある。その一角に石坂産業株式会社のオフィスと工場が位置する。同社はいわゆる「産廃業者」。1967年創業(当時は「石坂組」)の家屋廃材を処理するエキスパートだ。処理工場はオフィスに隣接しているが、騒音・振動・粉塵・臭気は一切ない。それでいて産廃業者として単独では日本トップクラスの年商51億円を上げる地域の中核業者である。周辺の「くぬぎの森」を管理しているのも同社だ。

2000年以前のこの地域は「産廃銀座」と呼ばれ、59本の煙突が並び、日々廃棄物焼却の煙が空を覆っていた。中でもひときわ大きな煙突を立てていたのが同社である。「所沢のダイオキシン騒動」が起きた1999年頃は環境汚染の象徴とみなされ、批判の矢面に立たされた。その煙突は今はなくなり、同社は一転して環境貢献企業と目されるようになっている。

この大転換を成し遂げたのは、2001年に父親である先代社長から事業を継承した石坂典子社長である。業態を一変させて事業を成長させながら産廃事業のイメージを逆転させた経緯を、今回は典子社長の妹である石坂知子専務に聞いた。

(聞き手:土肥正弘 ”Japan In-depth”ライター)


写真)石坂産業株式会社 専務取締役 ISO管理責任者 石坂知子氏

風評被害で絶体絶命

自然環境保護に取り組む「ゴミを出さない産廃業者」

産業廃棄物処理業は3K職場の典型というイメージは残念ながら一般にいまだに残る。しかし少なくとも周辺地域の人々にとって、そんなイメージは払拭されつつあるようだ。石坂産業では焼却処理を一切やめて「ゴミを出さない産廃処理」へと舵を切り、今では原材料ごとに分別できる廃棄物については100%、通常技術では分別困難な混合廃棄物でも独自技術により98%のリサイクル率で再生させている。

しかも処理工程はすべてを施設内で行い、騒音や粉塵を外に漏らさない設備を整えた。施設内部では大型の集塵装置を多数稼働させるとともに、重機のほとんどすべてを電気駆動のものに変え、作業環境内でも騒音や粉塵を極力抑え込んだ。建屋のまわりにはさらに騒音漏れを防ぐために壁を設置し、一部を壁面緑化して景観にも配慮している。

写真 左)石坂産業株式会社 専務取締役 ISO管理責任者 石坂知子氏
写真 右)作業場はすべて建屋内部にあり壁面緑化した防音壁が建屋周囲を囲む

その作業場の周囲には処理現場をくまなく観察できる見学通路がある。ここには年間数万人の住民、学生、ビジネスマンや研究者が国内外から見学・視察に訪れている。ここは産廃処理現場を体験的に学習できる環境教育の場でもあるのだ。

周囲に広がる「くぬぎの森」は、かつては荒廃して鬱蒼とした雑木林で、廃棄物の不法投棄が止まなかった地域だ。管理できない地権者から同社が一部は借り上げ、一部は買い取り、年間数千万円をかけて間伐や除伐、植林を進めている。総敷地面積は17万8000平方メートル。その85%以上の緑地管理を同社が行っている。森の中には従業員の手により散策コースが整備され、アスレチックやツリーハウス、広場、ミニSL鉄道など、子供連れで楽しめる設備も建設した。中には神社まである。一部は農園として同社がオーガニックな作物を作り、森の中の交流プラザやカフェテリアなどでランチに提供し、一部を販売してもいる。すべて同社の事業の一環である。

写真 左上)緑地の中の遊歩道。木々の間伐や下草刈り、廃木材を加工したチップによる歩道整備などは社員が担当
写真 右上)整備された「くぬぎの森」は「三富今昔村」と呼ばれる一般公開の自然公園になっている
写真 下)森の中のレストハウス。巨大な一枚板のテーブルなど、木材がふんだんに使われている。こちらも同社の経営。

 

環境汚染の風評被害で絶体絶命の危機に

「事業環境整備や環境保護への取り組みを通して、産廃事業の悪いイメージは変わってきています」と同社の石坂知子専務は話す。「でも十数年前は違いました。1999年のダイオキシン騒動をきっかけに、当社はそれまでの業態を大きく変化させたのです」。

もともと同社は先代社長の石坂良男氏がダンプ1台で創業した会社。東京・練馬区で産廃収集にあたっていたが、1982年に現在の場所に本社を移転、木材チップ工場コンクリートリサイクルプラントなどを建設し、廃棄物処理事業を発展させてきた。当時の廃材は焼却か埋め立てかの処分法が主流だったが、分別してリサイクルを図る方針を進め、業界内で抜きんでた業績を上げてきた。

隆盛だった事業は1999年のあるテレビ番組での報道で暗転した。所沢周辺の農産物がダイオキシンで汚染されているというのだ。後にこれが誤報だったことが明らかになるのだが、その時点では大きな社会問題としてクローズアップされ、地元では住民による産廃処理反対運動が巻き起こった。

「石坂産業の煙を止める会ができ、社屋や工場が常に住民に監視される状況になりました。焼却処理停止を求める署名活動や事業認可取消を求める住民訴訟まで起きたのです」。根拠のない噂は拡大し、顧客のゼネコンや大手ハウスメーカーからは取引停止を言い渡されるまでに状況が悪化した。当時の年商は20億円ほどだったが、3基あった焼却炉で7割の処理が行われていた。焼却をやめればたちまち苦境に陥る。

年商は3倍に

起死回生の策は娘の発案、事業承継が業務変革のきっかけ

渦中で悩む先代社長に、苦境を逆手にとって起死回生を図る提案をしたのが、現社長の典子氏だった。当時30歳で専務を務めていた典子氏は焼却をせずに施設内で分別・再生処理を行う道を模索していた。さまざまな処分施設を回り処理技術を学ぶ典子氏の努力に「産廃事業は女にはできない」と言っていた先代社長の心は動いた。

「先代は本当は長男に事業を継がせようと考えていたのです。年の順では典子が上ですが、やはり男でなければと思っていたようです。でも私は先代があるとき『自分と経営センスが似ているのは典子だ』と漏らすのを聞いています。先代は会社を永続企業にしたいという強い希望を持っていましたから、この絶体絶命の状況の中で事業を続けようと声を上げた姉に、事業の未来を任せてみようと考えたのだと思います」。ダイオキシン騒動から2年後の2001年、先代社長は相談役に退き、典子氏が新社長に就任する。長男は副社長に、知子氏は専務の職を担い、新体制で事業の再生に邁進することになる。

事業が縮小する中ではあったが、産廃処理は社会に不可欠な事業。環境汚染問題さえクリアできれば安定した利益が見込める仕事だ。新しい廃棄物減量化プラントの建設を目標に掲げ、新社長ら経営陣は多くの金融機関を説得して回った。最終的には12行の銀行からの融資とリース会社との協調リース支援を受け、当時の年商の3倍にあたる60億円の投資を行って、2002年には減量化プラント完成にこぎつけた。産業廃棄物を燃やさず、徹底的なリサイクル=資源化を図るための基盤が稼働を始めた。

写真 左)廃コンクリート処理現場を見学路から見る。説明にあたってくれたのは同社執行役員、経営企画室室長の熊谷豊氏。

ISO認証取得を契機に逆転成長が始まる

そこから先は、新社長が掲げる「持続可能な社会を作る、持続可能なプラント」のコンセプトにのっとって、大変革が続くことになる。変革の1つは国際規格ISOのマネジメントシステム認証の取得だ。2003年に業界初の品質・環境・労働安全衛生マネジメントシステムの3種の認証を取得、以降情報セキュリティ、エネルギー、事業継続、学習サービスのマネジメントシステム認証(合計7種)を取得している。それに伴う業務のオープン化と標準化が対外的評価を大きく改善し、大手顧客に認められて取引再開・拡大の原動力となった。現在では事業継承時の年商の約3倍にまで成長を遂げている。

「社長がISO取得を宣言したとき、その場でヘルメットを投げて辞めた社員もいました。標準化された業務プロセスを受け入れられない社員も当時は多かったのです。半年で4割の社員が辞めていきました。特に高齢社員が辞職し、平均年齢が55歳から35歳に一気に下がる経験もしました。荒療治にはなりましたが、これを機会に血が入れ替わり、新しい社員をOJTで育てていくうちに、社員と経営陣との垣根がなくなり、全体が明るい雰囲気に変わっていきました」。

写真 上左)機械で分別できないものは手作業で分別
写真上右)一見すると1つの金属に見える部品だが実は3種類の金属でできている。これを分解・分別すればそれぞれが資源となる
写真 下)巨大集塵装置の外観。PM2.5などの外部漏出も防げるという

見事だった先代の引き際

現在では毎日100台以上のトラックが出入りするトラックヤードで積み荷の廃棄物を検査し、オフィス棟の受付で料金を自動支払機で支払う自動受付システムが稼働しており、受付窓口はまるで銀行のそれのようだ。届いた廃棄物は建屋の中で木材やコンクリート、金属類などに大別されて建物内の専用ヤードで処理されている。見学路からガラス越しに見る作業場は粉塵も少なく、電気駆動の重機は低騒音だ。

捨てればゴミ、分別すれば資源」というキーワードを掲げる同社では、廃コンクリートは再生砕石や再生砂として生まれ変わり、木材は紙やボード剤、燃料などになる木材チップに再生される。金属類も鉄・アルミ・ステンレスなど素材別に分解・分類されてリサイクル資源に加工されていく。最終的に残る「ゴミ」は混合廃棄物の2%だが、これについても大学と協働して再生技術を研究しているところだ。AI(人工知能)を活用した選別ロボットによる分別も研究中とのことだ。

写真 上)1日に100〜400台のトラックが行き来するトラックヤード
写真 下)産廃受け入れは自動化システムが担う。窓口はまるで銀行のようだ

社内の美化と周辺の森の整備が理解

ネイリストやスタイリストへの夢を抱いていた時期もあるという典子社長だけに、業務変革とともに「外見から変えていこう」と社内の美化にも積極的に取り組んだ。事務棟も工場も整理・清掃が行き届き、オフィス前庭は瓦の再生敷石で整えられ、植栽の土台には廃棄された庭石が美しく並べられている。地域に愛される企業でありたいという思いと、持続可能な社会を作るための自然保護への強い意思が社内から周辺環境にも向かい、前述した森の再生・管理事業につながっている。

森の維持には年間数千万円の管理コストがかかります。でも、当社を家とすればこの森は縁側のようなもの。気軽に立ち寄ってもらって話をすれば、当社の事業に共感、共鳴してもらえます。工場にしてもこの森にしても、公開したことが企業成長につながったと思います。特に社員の意識が変わりました。自分の仕事が他人に見られることで、自発的に職場環境を美化しようという気持ちが芽生え、役員が何も言わなくても道具類なども整理整頓して、きびきびと行動するようになっています。見学・研修に来られる方にはアンケートをお願いし、意見をもらって経営や現場にフィードバックしています。挨拶や仕事ぶりをお褒めいただくことも多く、それが社員の励みになります」。

会社が苦境に陥っていた頃には社員の平均勤続期間が1年半という時代もあったが、現在では定着率が大きく改善した。約170名の社員の中には3組の親子もいる。

「親子3世代が働ける会社を目指しています。親が子供を安心して勤めさせられるような会社にしていきたい」。

ただし株式上場や外部からの幹部登用などは考えていない。あくまで家族を中心にしてベクトルの揃った経営を貫いていく方針なのだという。今は順風満帆の経営のようだが、かつての経営危機のことを忘れてはいない。「万が一、メガバンクが離れていった場合でも事業を継続することを考えれば、年商に匹敵する資金が必要になります。そんな場合に備えて積み立て式の企業保険に加入しており、いざとなれば解約して資金を作ることができるように配慮しています。これは一種の貯蓄と考えています。保険料支払いは高額になりますが、必要な対策なのではないかと思っています」。

永続企業を目指して事業に邁進してきた先代社長の思いは、確実に後継者に引き継がれている。同社の経営からは離れた好男氏だが、今でも事業欲は旺盛だ。「相談役なのに誰も相談に来ない」と自分で人材派遣会社を起業し、石坂産業とウィンウィンの取引関係を築いている。会社の危機を救ったのは現社長の新しい発想と行動力に違いないが、引き際を見誤らなかった先代社長の決断も見事なもの。親から子への事業承継を考える企業には参考になるところが多いだろう。