内容へスキップ
トップ > 経営ペディア > 事業承継 > 売り上げ9割減から異業種コラボで反転攻勢へ 株式会社中村製作所 代表取締役 山添卓也 氏
事業承継

売り上げ9割減から異業種コラボで反転攻勢へ
株式会社中村製作所 代表取締役 山添卓也 氏

  • 後継者
  • 地方創生

この記事は8分で読めます

bestpot_150.jpg

航空宇宙部品をはじめとする工作・産業機械の部品加工を手がける中村製作所。1世紀以上の沿革を重ね、1/1000mmという超高精度の切削加工技術を磨き上げてきた。蓄積してきた技術をベースに、近年はチタン製の印鑑や蓄熱調理土鍋など幅広い製品群を世に送り出している。4代目代表の山添卓也氏は「ワクワクする仕事をつくり、固定観念にとらわれない」をモットーにものづくり集団を牽引してきた。先代亡き後、24歳で社長に就任。リーマンショックでは1社取引のリスクが直撃し、売り上げ9割ダウンという辛酸を舐めたこともある。苦境を乗り切り、いかにして反転攻勢に出たのか。技術基盤と異業種連携を生かして自社ブランドを立ち上げた背景、そして中小企業ならではの事業承継問題を聞いた。

山添社長トリミング.jpg

株式会社中村製作所 代表取締役 山添卓也氏(やまぞえ・たくや)

1977年生まれ。三重県出身。大阪産業大学工学部を卒業後、2000年に中村製作所に入社。大手工作機械メーカーの研修を経て、2001年に中村製作所の代表取締役社長に就任。自社ブランドとして「MOLATURA(モラトゥーラ)」を立ち上げ、チタン製印鑑「SAMURA-IN(サムライン)」、蓄熱調理土鍋「bestpot(ベストポット)」などを商品化。2013年にはものづくり中小企業のグループ「中部ものづくりユナイテッド」の発足に参画し、宇宙ロケットの部品開発なども手がける。

大学卒業後、父の急逝を経て間もなく社長に
20代社長はただがむしゃらに疾走する

株式会社中村製作所は1914年(大正3年)に漁網の編機メーカーとして創業した。太平洋戦争では空襲で工場が焼失したが、戦後に再起。1969年には株式会社中村製作所を設立し、高度経済成長期に躍進。オイルショック後は工作機械部品の加工を主軸とし、大手工作機械メーカーの受注を獲得。順調に業績を伸ばしてきた。

 

山添卓也氏は創業から数えて4代目に当たる。機械に興味を持ってはいたが、「工作機械の部品を作る仕事」はピンとこなかったという。

 

「消防士や警察官などの誰でもわかる仕事とは違い、工作機械の部品を機械で作る…。今ひとつイメージが湧かず、いったい誰が喜ぶ仕事なんだろう?という疑問を感じていましたね」と、幼少時を振り返る。

bestpot_145.jpg

小中高とサッカーに夢中になり、高校では県大会3位という結果を残した。名古屋グランパスのユースチームの最終選考にも進み、サッカーのスポーツ推薦で大学に進学するという選択肢もあった。

 

「自分としては全国大会まであと一歩、という中途半端な実績だと感じていましたね。だったら、『継いでほしい』と常々言っていた父の思いに応えよう、と決意しました」

 

大学は家業に関連した工学部に進学。卒業後は中村製作所に入社し、経験を積むため、取引先である大手工作機械メーカーの研修に参加する。向学心に燃え、山添氏は研修に励んだ。しかし、2年という予定を前倒しし、数か月で家業に戻ることになる。父が末期がんを宣告されたのだ。

 

「生まれ変わってもこの会社をやりたい。そう言うほど仕事が好きな父でした。父の期待に添うべく、会社を牽引しなければ。ただ、私は社会人になってようやく1年足らず。そんな社長に社員はついてきてくれるのか。取引先はどうなのか。不安はつきませんでした」

_MG_7050.jpg

父の他界後、24歳という若さで会社を継ぐことになった山添氏。当時、社員の平均年齢は40代半ば。頭にタオルを巻き、タバコを吸いながら機械を動かすような職人気質のメンバーが工場を仕切っていた。

 

匠の技術はあったが、組織の体はなしていない――それが当時の印象だったという。

 

「急な代替わりで退社する職人も相次ぎました。そこで私が思い出したのは、フィールドに立ったサッカー少年のときの気持ちです。ただ、がむしゃらに走り続ける。汗をかく。社員にも、取引先にも、それで認めてもらうしかありません」

 

部品を加工し、納品し、営業にも出る。一人でボールを持ち、ひたすら走り続けた。ITバブルの好景気も後押しし、業績は右肩上がり。「父から継いだ会社を軌道に乗せられた」と思った矢先、リーマンショックがやってきた。

一社取引のリスクを知ったリーマンショック
外部との連携で自社ブランドを起動する

2008年。リーマンショックが襲来し、国内需要は冷え込む。中村製作所の受注は、ある大手メーカー1社に集中していた。ところが、その大手が不況でシビアな決断を下す。主だった発注を内製に切り替え、残った発注も20%のコストダウン。中村製作所の売り上げは実に9割も激減する。山添氏は1社取引のリスクを痛感したが、経営者として頭を抱えてばかりもいられない。気がつけば、会社として存続の危機が迫っていた。

 

「リーマンショックは、わが社が抱える潜在的なリスクをあぶり出しました。ものづくりが大好きで、土日も工場に来て働いても報われない、この仕事って何なんだろう?初心に帰ったら、楽しくない、ワクワクしていない自分に気がついたんです

 

その気づきが1社取引から脱却し、自社ブランドで独り立ちをする決断を導く。今までは仕事を請けるだけの「待ち」工場だった。しかし、仕事がないのならば自分で取りにいかなければ生きてはいけない。この決断が、中村製作所を「攻め」の工場へと変える。

 

最初のアクションは展示会への出展というかたちで行われた。自動車メーカーや大学、飲食業など多様な業界・業種が集う場で、自社の技術が初めて他の業界から評価される。ブースで評判を呼んだのは、ロゴを精巧に刻んだアルミ製のワイングラス。「これなら印鑑も彫れるんじゃないの?」という相談を持ちかけられたことから、自社ブランドによる独自開発が視野に入った。

SIウェブ1トリミング.jpg

チタン製の印鑑「SAMURA-IN(サムライン)」http://samurain.jp/

「私たちの工場には、長年培ってきた精密加工の技術がありました。ただ、自分たちで企画・デザインするという経験値がない。そこで外部のプロダクトデザイナーと組み、異業界の発想、着眼を得ることで初めて自社ブランドを立ち上げられたのです」

 

チタン製の印鑑「SAMURA-IN(サムライン)」、そして蓄熱調理土鍋「bestpot(ベストポット)」。自社ブランド「MOLATURA(モラトゥーラ)」からは、1社取引時代では考えられなかった商品が次々と送り出された。山添氏は「連携があったからダイナミックな商品開発ができ、ワクワクするものづくりができている」と語る。

180316_16699.JPG

蓄熱調理土鍋「bestpot(ベストポット)」https://www.bestpot.jp/

「ベストポットは三重県四日市市の特産品である萬古焼(ばんこやき)を加工したもの。地元の伝統工芸に私たちの技術を加え、新しいものを生み出している。そして、社員みんなが満足し、ワクワクできるものを作れている。そこに自社ブランドの意義があります」

bestpot_122.jpg

連携の手応えは、金型、板金、メッキなど、さまざまな高度技術を持った中小企業が集まる「中部ものづくりユナイテッド」の発足につながる。共同受注や情報共有にとどまらず、社員教育、組織改革も刺激し合いながら進めてきた。近年は愛知県の航空宇宙企業が進める民間ロケットの開発にも参画しており、「リアル下町ロケット」として期待も高い。

 

連携による化学反応は、新たな価値観をもたらす自社ブランド製品を生む。そして、関わる人たちすべてに「ワクワク」をもたらしていく。好循環が回り始めた時、父が残した社是「空気以外は何でも削ります」を強く意識した。

 

「父の言葉は、一生ずっと追い続けなければいけないもの。社員には機械加工の技能検定を毎年受験してもらっており、技術・技能に重きをおくことに変わりはありません。しかし、私たちは『職人』という言葉は使いません。その人にしかできない仕事ではなく、マニュアル作りや仕組み化、知見の共有を進め、チームとして技術を向上させていければと考えています」

自由で、そして責任が伴うものとして
理想の事業承継を考えていく

プロダクトデザイナーと組んだ自社ブランドの立ち上げ、中小企業の運動体として進む中部ものづくりユナイテッドでも、山添氏は「連携」というキーワードのもと、新たな打ち手を繰り出し続けてきた。

 

リーマンショックで痛手を被り、近年は米中貿易戦争の余波の影響も受けている。しかし、「今後も予想だにしない不況、経済の減速によるショックが待ち受けているでしょう。外部環境が変化しても耐えられる強い会社を目指したい」と前を向く。

 

「リーマンショックでは目先の仕事がなくなり、途方にくれたこともありました。そんなとき、豊富にあったのは時間です。自分たちには何ができるのか、1年後にはどうありたいのか。方向性を話し合い、意見をすり合わせる未来会議を開催していましたね。今にして思えば、あれが自社ブランドづくりの起点でした」

 

固定観念を取り払い、自由なディスカッションを重ねる。そこからチタン印鑑が、そして無水調理ができるハイブリッド鍋が誕生した。そこにはワクワクした、自由なものづくりがある。かつて山添少年が「誰のためにある仕事だろう?」と首をかしげた工場では、社員の高揚感、連携先や取引先の期待、商品を手に取る消費者の興奮が連鎖し始めている。

 

「『ワクワクする会社』を次代にも引き継いでいければ」と山添氏は事業承継の展望を語った。

従業員+関連企業様.JPG

「しぶしぶ継ぐような会社ではなく、喜んで手を挙げる。そんな会社を目指したい。そのためには社員を含め、関わる人がみんな楽しい、ワクワクする気持ちで仕事に励める環境を作らなければいけない。それが経営者の大事な役割です。そして、事業承継で最も難しいのは、継がせる側が完全に権限を移譲できるか、ということ。私もそうでしたが、引き継ぐ側は自由であるべき。もちろん、自由には責任が伴います。責任感を持ちつつ、大事な企業理念と向き合っていく――それが理想の事業承継のかたちではないでしょうか」