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事業承継

2代目で迎えた冬の時代からV字回復へ――老舗製麺所3代目の挑戦
麺屋 棣鄂(めんや ていがく) 知見 芳典 氏

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ウィング麺にサンダー麺。唯一無二の麺を繰り出し、ラーメン業界に旋風を巻き起こす京都の製麺所「麺屋 棣鄂(めんや ていがく)」。充実した製麺ラインが支える生産基盤、オーダーメイドに応える営業姿勢が苦境からのV字回復をもたらした。麺のプロフェッショナル集団を率いる3代目・知見芳典氏に聞いた。

麺屋 棣鄂(有限会社瑞穂食品工業) 代表取締役 知見 芳典氏

麺屋 棣鄂(有限会社瑞穂食品工業)
代表取締役 知見 芳典氏(ちけん・よしのり)

1972年生まれ。京都府出身。1931年に創業した麺屋 棣鄂の3代目。高校卒業後、沖縄に渡ってヨットマンを目指すも挫折。京都に戻り、ビルメンテナンス会社、大手清掃会社の営業マンとして順調にキャリアを重ねる。1996年、父の急病を機に麺屋 棣鄂に入社。2003年に麺屋 棣鄂を継承し、代表取締役に就任。中華麺に絞った製麺所としてリスタートし、ラーメン業界で注目を集めるオーダーメイド麺を次々に開発した。2020年1月現在、38都道府県のラーメン店に麺を卸している。社名の「棣鄂」は、創業者の知見鬼三が「兄弟、同志たちが仲睦まじくしている」という意味の中国の故事「棣鄂の情」にちなんで命名したもの。

稀代の経営者が創業した老舗製麺所
2代目で業績が低迷。さて、3代目の打つ手は?

1931年(昭和6年)に創業し、京都で初めて中華麺を手がけた製麺所として知られる麺屋 棣鄂。創業者の鬼三氏は、製麺所だけではなく中華料理屋、料亭などを手がけて次々に成功させ、京都の長者番付に載るほどの稀代の経営者。しかし、2代目になって業績は低迷。3代目にあたる芳典氏にも幼少期から家業を継ぐ意識はなかったという。


「2代目の父・要からは『製麺業はもう先細りだ。長男であっても後を継ぐことはない。おまえは自分の道を切り開け』と言われており、製麺業はまったく手伝ったことはありませんでした。そんな私がなぜ家業を継ぎ、3代目社長になったのか? それは1996年に脳梗塞で倒れた父から『このままでは会社を閉めなければいけない。従業員を路頭に迷わせるわけにはいかないから、ちょっと帰って来てくれないか』と頼まれたからです」

「当時、私はダスキンの営業として働いていました。仕事はやりがいもありましたが、雇われの社員である以上、キャリアの先が見えてくる頃です。いっちょ、一国一城の主としてやったろかと。一念発起して家業を支えることを決意したのです」


当時の棣鄂の年商は7000万円前後。工場をのぞいてみると、設備は老朽化が進んでおり、社員は業務の合間にテレビの相撲中継に興じるようなベテランばかり。知見氏は、床に落ちた生麺を平気で箱に戻そうとするスタッフの意識に愕然としたという。


「衛生観念はもちろん、当時は在庫管理の概念もありませんでした。私が在庫を見ていると、麺の生産数と出荷数には毎日600玉以上のギャップがある。これは何かと調べてみたら、ベテラン社員が商品を横流しして小銭を稼いでいる始末です。会社を変えようと思っても、『ブランディング』という考えを分かってくれる人すらいない…」

「そこで浮かんだのが弟の顔です。弟の和典は幼少時から味覚が鋭敏。ざるそばを頼めば、ツユにつけずに麺だけ最初に食べるような幼稚園児でした(笑)。僕は弟のそんな“絶対味覚”に着目。『お前は工場で麺博士になれ!その麺を俺が確実に売ってくる』と言って会社に誘いました。製造と営業の両輪が揃えば、棣鄂はまた飛躍できる――そんな確信があったんですね」

関西で初めて「つけ麺用の麺」を作る!
1日10杯を食べ歩き、兄弟で開発を目指した

知見兄弟が経営の立て直しに取り組み始めた時、大手ラーメンチェーン店から大口のオファーが舞い込む。まとまった売り上げが立ち、苦しかった経営も一時的に上向いたという。


初めて見る『黒字』に高揚する気持ちが抑えられませんでしたね。これでセレブの仲間入りや!…って、我ながら何と単純でしょうか。入金はあくまでワンショット。そこで手を打たなかったら、キャッシュフローが回らずに苦しくなるのは目に見えているのに(笑)」

「あそこで舞い上がって高級車なんか買っていたら、経営も傾いていたでしょう。しかし、老朽化した工場設備も限界を迎えていて、旧式の製麺機を一新するタイミングでした。そこで、黒字分を一気に設備に投資。これが幸いでしたね。麺の品質は目に見えて向上しましたから」


営業・製造の兄弟ツートップ体制のもと、生産基盤が整備された。知見氏は熟慮の末「品質ファースト」路線に舵を切り、麺屋 棣鄂を「麺の匠」とすべく、リブランディングに着手する。


「それまでは中華麺だけではなく、うどんやそば、焼きそばなど幅広い麺類を手がけていました。創業期はうどんでもそばでも中華麺でも電話一本で配達してくれる。そんなフットワークの軽さ、利便性にニーズがあった。しかし、リブランディングに取りかかった2000年代初頭はラーメン業界に『自家製麺』のブームが到来していました。スープだけではなく麺にもこだわり、本格派の麺料理として完成度を上げていく流れです。時代の波に乗っていくためには中華麺一本に絞り、プロ仕様の麺を届けていかなければなりません」


「少しでも収入になるんだから、そば、うどんも別に止めんでええやんか」という和典氏とは兄弟喧嘩にもなった。しかし、堅い決意は揺るがない。製麺業に取り組み始めて、既に10年近くが経っていた。経営が思うようにならなくても、実績がなくても、そこには「麺のプロフェッショナル」として立つ矜持がある。

「根拠はないけど、妙な自信はありました。店主がラーメンのプロなら、私たちは麺の製造に特化したプロ。しかも、製麺機というハードと、麺博士として研鑽を積む弟というソフトもあります。本気を出したら負けるはずがない。ただ、中華麺に絞って品質を突き詰めていく上で、当社にはアピールできる実績がない。対外的にも社内的にも、成功体験を渇望していました」


苦闘を続ける知見兄弟の前に舞い込んだのは、「関西で初めて“つけ麺用の麺”を作る」というプロジェクトだ。つけ麺は「麺を食べさせる」麺料理である。濃厚なつけ汁に負けない、存在感のある麺を製造できるのは、つけ麺ブームを牽引する東京の製麺所に限定されていた。関西のラーメン店も、つけ麺をメニューに加えるなら東京から取り寄せるのがセオリー。そこに、関西発の麺でつけ麺の完成を目指すラーメン店が現れる。2000年代の京都ラーメンシーンを先導する『京都千丸しゃかりき』だ。

「アンチジャイアンツの心意気ですね。東京何するものぞと」。知見氏の負けじ魂に火がついた。東京のつけ麺店を視察し、1泊2日で10食以上のつけ麺を食べ、兄弟で研究を重ねていく。工場にこもっての試作から店舗での提供、フィードバックを受けての改善――サイクルを延々と回し、リングイネのような楕円形の断面をした新感覚の麺「ST14M」が完成したのは、開発を始めてから1年後のこと。SNSが普及して店主やラーメンフリークの情報拡散が容易になっていた時流にも乗り、「麺屋 棣鄂」の名前は関西一円、そして関東へと広がり始める。

継ぐ側と継がせる側は「種目」が違う
V字回復で体得した企業承継の極意

「しゃかりき」の成功体験を踏み台に、麺屋 棣鄂は破竹の快進撃を続けた。ミシュラン掲載店やラーメンアワードの表彰店に採用され、全国にその名が轟いた。現在は38都道府県のラーメン店に麺を卸しており、月に100件程度の新規問い合わせが続く。当然、業績も好調だ。3代目社長の就任以来、15年連続で前年比110%以上の安定したプラス成長を続ける。7000万円台に低迷していた年商も10倍以上を叩き出しているという。


2020年現在、弟の和典氏は社外に出て研鑽を積んでいるが、アドバイザーとして生産・開発体制をバックアップ。1ライン1億円以上というハイスペックな製麺機を3ライン走らせており、ハード面への投資も怠りない。営業面では、不毛な消耗戦を回避するため、飛び込みというスタイルは取らないのが信条だ。


「飛び込みで営業したら、価格面での勝負になるのは避けられない。麺という商品は低単価ですから、価格競争に陥っては疲弊していくだけ。それよりも、圧倒的な品質を磨いてオファーを待つのが当社のスタイルです。きめ細かいカスタムでオーダーメイドに応じる体制ができています」

「会社を承継した時、中華麺のレシピは2種類しかありませんでしたが、現在は300アイテム以上をラインナップしています。断面がY字になったウィング麺、縮れが稲妻のように見えるサンダー麺、ランダムな切れ込みが入ったドラゴン麺。これらの麺は名だたるラーメン店主たちにご愛顧いただいています」

「こんな麺があったら面白いんじゃないか?」という少年のような遊び心。「ラーメン店の店主だったら、とことんカスタムに応じてくれる手厚い製麺所から取りたいはずだ」という、冷静な顧客視点。遊びとビジネスの視点が融合し、唯一無二の商品群が次々に繰り出されていく。


「今後のビジョンとしては、全国に製造拠点を構えるために東京など他エリアの製麺所との業務提携、そして友好的なM&Aを視野に入れています。スムーズな事業承継に課題を抱える製麺所は数多くあります。製麺業界を先細りにしないため、そして遠方の顧客にスピーディーかつ低コストで麺を届けるため、全国的なネットワークを考えていきたいですね」


業績が低迷した先代からバトンを受け継ぎ、見事なV字回復。さらにその先を見据える知見氏だが、あらためて苦境からの承継を振り返っていただこう。


「承継当時を振り返って思うのは、親父と私の間に番頭さんがいなかったこと。そして何より、親父が黙ってくれたことに尽きます。社長を継いだ時、銀行から2000万円の運転資金を借りました。そこで『これは俺が社長を継いだから借りられた金だ。会社のために好きなように使わせてもらうから、親父は口出さんといてな』と父に言いました。今思うとひどい言い方だったとも思いますが…それでも親父は黙っていてくれました」

「会社のバトンを渡す方には、ある意味覚悟が必要です。創業者なら自分が苦労して作った会社だから思い入れがある。2代目以降であっても、汗と涙で築き上げてきたと自負があるでしょう。だけど『この会社をくれてやる』という覚悟がなければ、生半可にバトンタッチをしたらあかん、と思うのです」


事業承継について、「継がせる先代と継ぐ次代は種目が異なる」というのが知見氏のスタンスだ。稀代の経営者として名を馳せた祖父、その存在感に負けじと苦闘を続けた父。初代、2代目に思いを馳せる知見氏には、3代目ならではの「承継の極意」がある。

「飛行機になぞらえたら、創業者はパワフルで何百人も一気に運べるジャンボジェット機。一方、2代目はグライダーなんです。それぐらいスケールも馬力も違うと思ってください。ただ、グライダーにもいいところはあります。調整次第では、遠くの目的地までしっかり飛ばせる。マイペースにそつなく事業を伸ばせるという優位性があるかもしれません。大事なのは、その種目の違いをしっかり踏まえているかということ。『先代のように馬力を持ってやらなきゃ』というプレッシャーから解放されたら、継ぐ側も、そして継がせる側も、もうちょっと楽になるのではないでしょうか」





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