経営の苦労を一通り経た今だから言える原点回帰し「この味を守りたい」 株式会社寺岡銈吉(けいきち)商店 代表取締役 寺岡 舞氏
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世界遺産・石見銀山のある島根県大田市大森町で、病気やけがなどで手や足を失った際の義足や義手などの義肢、身体機能を補うコルセットやサポーターなどの装具(以下、「義肢装具」)、医療機器の製造販売を営む「中村ブレイス」。アートの概念を取り入れたリアルで美しい義肢製作が高い評価を得ています。さらに廃れかけていた地元・大森町の再興にも尽力。その経営姿勢について、二代目の中村宣郎さんに話を聞きました。
中村ブレイスは、1974年に会長の中村俊郎氏が創業。現在は息子の中村宣郎氏が二代目として会社を引き継ぎ、先代の思いを大切にしながら、患者の思いに寄り添った義肢装具の製造・販売を行っています。
なかでも1991年に設立した「メディカルアート研究所」で製作される人工補正具の人工乳房「ビビファイ」、指などの欠損した体の各部位を再現する「スキルナー」は、アートの概念が息づく本物そっくりの仕上がりが高い評価を得ています。
人工補正具とは、病気や事故、先天的な理由で体の一部に欠損・変形がある場合に、その機能や見た目を補う人工の乳房や手指、耳・鼻などのことです。同社の製品は、世界に先駆けてシリコーンゴムを採用し、一人ひとりにあわせて肌の色や形状までリアルに表現しています。
「私どもの製品を『義肢装具のハイブランド』と称してくれる医師もいます。義肢や人工補正具は、まず患者さんに着けたいと思ってもらわなければなりません。シンプルで、長く使えるように細部まで気を使いながら製作しています」
特に人工補正具は、機能面とともに見た目の美しさも重要です。
「メディカルアート製品は、欠損した体の一部をもう一度“取り戻す”ことを目的に作っています。シリコーンゴムは、肌にやさしく、劣化しにくい素材です。また、失われた部位となるべく同じような見た目を追求した結果、アートの概念が自然と強くなっていきました」
「美しさ」「感性」を大切にしたものづくりは、会長が義肢装具づくりの最先端をいくアメリカで学んだ考え方であり、創業から独自技術を開発してきた意欲にもつながっているといいます。
「会長は、納品寸前でも完成度が低いと判断した製品にはハサミを入れてしまうほど、仕上がりに強いこだわりを持っていました。それは、自分たちが納得して終わりではなく、最終的に患者さんの元に届いて装着するまでを考えないといけないという思いから。それは中村ブレイスの核となる考え方になっています」
同社は一昨年に創業50周年を迎え、日本のみならず世界からも注文が来るほどの企業へと成長しました。宣郎氏は、義肢装具士として中村ブレイスに入社し、8年前に二代目社長に就任しました。しかし、父からは一度も「継いでほしい」といわれたことはなく、自身も義肢装具士の道を考えてはいませんでした。そのため一度は東京の文系の大学へと進学しました。
「私が大学を卒業する頃は、すでに事業は順調に拡大していました。メディカルアートを取り上げてくれるメディアがあったり、モンゴルの少年を日本に呼んで義足を作ったりしていたので、この仕事を外から知った感じです。思ったより良い仕事で面白そうだなと。そこで卒業するタイミングで、義肢装具士の専門学校へ通い、国家資格取得後に中村ブレイスに入社しました」
また、同社をモデルにした映画『アイ・ラヴ・ピース』の制作話が持ち上がりました。撮影協力のため、宣郎氏がロケ地であったアフガニスタンに同行することに。その経験を「他では得られないチャンス」と感じ、地元に戻る決め手の一つになったといいます。
「海外進出を目指していたわけではなく、一人ひとりとのご縁を大切にする中で結果として当社の製品が世界へと広がっていきました。アフガニスタンへ行ったことも貴重な経験になりましたね。世界の広さ、そして義足を必要とする方がたくさんいることを目の当たりにして、日本だけでなく、世界中の人に喜んでもらえるものづくりができるのは良いことだと思いました。」
宣郎氏は職人として働いた後に、会長の70歳を機に社長に就任。ものづくりに対する姿勢は先代と変わらず、一流の職人を育て、社員が安心して働ける環境をつくることを経営の信条として、日々を送っています。
「現状の課題としては、社員の定着でしょうか。少し前は中村ブレイスの名だけでも、年に2、3人は新卒の就職希望者がいましたが、今は日本全体の人材不足の影響で一人でも難しい。弊社を選んでくれた社員がいかに長く勤めてくれるようにできるか試行錯誤しています。次世代にも早めに目を向け、将来的に地元にうまくUターンしてくれるように、中高生はもちろん、小学生にも中村ブレイスの仕事や魅力を発信するようにしています」
中村ブレイスを語るうえで、製品の品質へのこだわりとともに欠かせないのが地元の再興支援です。大田市大森町にある石見銀山は、最盛期には世界の銀産出量の約3分の1を占め、アジアやヨーロッパ諸国の文化にも影響を与えました。その後、銅山としても利用されますが、1923年に休山。そこから町も徐々に衰退し始め、同社が創業した時にはすっかりゴーストタウン化していました。大森町には義肢装具を提供する病院はなく、交通の便も決して良くない地域で、ビジネスに適しているとは言い難い場所でした。
「会長には、自分の生まれ故郷を衰退させたくないという強い思いがあったようです。患者さんに喜んでもらえる良い仕事をすれば、場所は関係ないということをアメリカで学び、起業を決めたといいます」
大森町は江戸時代から続く瓦屋根の日本家屋が残り、なかには希少な武家屋敷も現存する風情ある町並みが広がっています。外観は古民家でも、中を最新の設備にした集合住宅は社宅として利用しています。そして2007年に石見銀山が世界遺産に登録された後は、古い建物をリノベーションしたゲストハウス「ゆずりは」、「オペラハウス大森座」、「石見銀山 まちを楽しくするライブラリー」などの文化施設も次々に手がけました。特に元商家を利用したライブラリーは島根県立大学と協業し、本を読むだけではなく、カフェやコワーキングスペースも併設した第4のキャンパスとして、学生や住民が集う独創的な場所へと生まれ変わりました。
「家族としては、オペラハウス? ライブラリー?と、会長が進める話にはクエスチョンマークが浮かぶこともありました。それでも突き進めてこられたのは、文化や芸術を地域に根付かせること、地域の個性・歴史を大切にすることが、会長の中村ブレイスを育ててくれた大森町に対する恩返しだったのでしょう。質の良いものづくりは、その手段だったのかもしれません。それを地域の人が大らかに見守ってくれて、ベテラン社員が付いてきてくれました」と宣郎氏は朗らかな笑顔を見せました。たった1人が始めた活動が段々と実を結び、今では移住者が営むデザイン事務所やドイツパン店なども誕生。観光客も増え、町には再び活気が戻りつつあります。
「小学校の生徒数も一時はかなり減ってしまっていましたが、今は昔と同じ水準の約40人にまで増えました。私には子どもが3人いますが、その子どもたちがパン屋に立ち寄ったり、図書館で楽しそうにしていたりするのを見て、今までの取り組みの意味を改めて実感します。地域の皆さんにも喜んでいただいているなら嬉しいことですし、身近にいる家族が楽しめる町づくりを考えていけば、大森町の発展に貢献できると思っています」
現在大森町には、中村ブレイスの社員15人、家族をあわせると40人ほどが居住中です。
患者にあわせて作る義肢や人工補正具づくりは、出会いがとても大切だと宣郎氏は話します。
「かつては世界中に影響を与えていた石見銀山に根付いた文化があることが大きいかもしれませんね。そこに我々の思いをともにできる奇跡的な出会い、ご縁があってできたことです」
「お一人おひとり障がいが違うので、義肢づくりは慣れるということはありません。正解がないなかでどうやって最良のものを提供していくかを常に考えます。弊社の社是である“think”を念頭に、真摯なものづくりに取り組んでいます」
山陰広告賞2025でグランプリを受賞した創業50周年のポスターには、「支える」という言葉が50thとともにロゴ化されています。
「中村ブレイスのブレイスは支えるという意味です。ものづくりは、使う人を喜びで支える。そういう意味では、ものづくりも町づくりも、常に最良になるように考えて“支える”という共通した思いがあります」
最後に、地域で挑戦を続ける企業に向けてメッセージをもらいました。
「出会った人や地域の人に喜ばれることをすれば、自分たちにも良い影響が戻ってくる気がします。地元の掃除や祭りに参加するでもいい、その交流に小さな気づきがあります。足下にあった石ころが、実はダイヤモンドだったということもあるはずです」
中村ブレイスは、100年企業を目指し、これからも人々を支えるものづくりを続けていきます。
お客さまの声をお聞かせください。
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