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事業承継

「マットレスの違いをとがらせたい」
近江化成工業株式会社2代目  小林 清 代表取締役

  • 60代-
  • 卸売小売業
  • 製造業
  • 近畿
  • 後継者
  • 地方創生
  • 新規ビジネス

この記事は12分で読めます

人生の3分の1を費やすといわれる「睡眠」。その睡眠の質をどう確保するかは、現代人にとって最も重要なテーマのひとつだろう。


枕やマットレスが体に合わない、と悩んでいる人は多い。かといって決して安い買い物ではないゆえ、そう頻繁に買い換えるわけにも行かない。


今回訪れたのは、特殊な中芯材をつかってマットレスを製造・販売している滋賀県の近江化成工業株式会社


降り立った駅は、東海道本線の能登川駅。この地は近江商人発祥の地として知られる。


小林清社長は実家が家業を営む2代目。子どもの頃は鉄道オタクだった。鉄道の時刻表を眺めて空想の旅を楽しむいわゆる「鉄っちゃん」ではあるがそれだけでは飽き足らず、航空会社のタイムテーブルも手に入れ、世界中を飛び回る夢に酔いしれていた。

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大学を卒業し、親戚の会社に入るも紆余曲折を経てオリンパスに転職し、「世界中を飛び回る夢」を実現するかのように海外でバリバリ仕事をしていた。結婚して子どもも生まれ順調な40才にさしかかる頃だったが、このままサラリーマンを続けていていいのか、もやもやしたものも感じていた。


その時、日本で先代の父親が取引先についた「一世一代の嘘」が小林氏の運命を変えようとは夢にも思わなかった。


その嘘とは・・・


小林氏がたまたま転職を考え一時帰国したのと時を同じくして、父親の会社は新幹線のシートの中芯を受注しようとしていた。しかし、当時の会社は父母、それに高齢の従業員の3人のみ、典型的な家内工業のような状態だった。今後20年、30年と続く新幹線シートの発注に不安を抱いたシートメーカーは当時70代の父親に後継者はどうするのか、聞いたのだ。


その時父親は、「息子が来年帰ってきますから」、そう答えた。無論、小林氏のあずかり知らぬこと。それを母親から聞いた小林氏。承継などみじんも考えた事の無い小林氏にとって寝耳に水だった。とにかく母に促され、父と相対峙した。しかし、父は熱っぽく仕事の話をするのみだ。


「(承継の話なんか)一言も言わずに、新幹線の加工の話ばっかりでした。でも、自分の夢に向かってやっている姿がすごくかっこよく見えちゃったんですよね」

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当時小林氏が読んでいた本が世界的ベストセラー「アルケミスト」(パウロ・コエーリョ著)のテーマは「前兆にしたがえ」。父親の会社を継ぐことに決めた「前兆」を感じた瞬間だった。


もう一つの決め手は新規事業が大好きな鉄道に関係していたこと。


決定的だったのが新幹線だったことなんです。小学生の時の夢が新幹線の運転士。部屋中新幹線のポスターを貼って。運転士として乗客の人を引っ張ることはできないけど、お尻から支えることで自分の夢を別の形で叶えることもできるのかなあと」


一旦、転勤が決まっていたドイツに家族と赴任した小林氏。奥さんに実家に戻る決意を話したところ・・・


「大反対でしたよね。せっかく安定しているのに駐在員の生活からいきなり滋賀の田舎の、経験したことのない生活になるわけじゃないですか」


説得に次ぐ説得、一度決めたら後には引かない夫の性格を知り尽くした妻はついに折れた。


そして2007年秋。15年間勤めたオリンパスを退職し、廃業寸前だった近江化成工業を引き継いだ。

実家を継いで

実際に会社に入って財務諸表を見たらかなりの借金があった。また、新幹線のシートのビジネスといっても、一旦受注したら後は補修の仕事のみだということもわかってきた。


「父と母と私の家族、それに従業員1人が食べていくには十分な位の仕事量でしたが、補修の仕事もいずれは先細る。その先の保証がなかったのです」

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給料として懐に入るお金はオリンパス時代の4分の1に激減した。相当追い詰められたのでは?


「その頃はそんなには悲壮じゃなかったですね。割と楽天的な性格なんで。逆にそれが楽しいみたいなところがあって、むしろハートに火がつきました」


そこで小林氏が手を付けたのは事業のリストラだった。当時主力事業はウレタンの加工。新幹線のシートの材料「ブレスエアー®」はまだ全体の3割程度だった。「ブレスエアー®」とは、総合化学メーカー「東洋紡株式会社」が1990年代中盤に開発したファイバー系素材の先駆けだ。ポリエステルに特殊な原料を加えた「三次元スプリング構造体」で、細い繊維をインスタントラーメンのように立体的に絡み合わせてつくられている。

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写真)「ブレスエアー®」イメージ

出典)爽快潔リビング

高反発性に優れ、「敷布団/マットレス」に向いた素材であることに小林氏は目を付けた。ウレタン加工のビジネスは薄利多売だが、「ブレスエアー®」なら高収益体質に転換できる、と。


さっそく小林氏はキャッチコピーを作った。「-3+3=∞(無限大)」というのがそれだ。ウレタンを主力とした当時の3つの核の事業と決別し、「ブレスエアー®」を軸に新基盤となる3本柱事業を新たに確立。その方程式を実現することで、無限大の発展を目指そうと決意したのだ。

 

そこからは電光石火のビジネス展開が始まった。新幹線のシートに続く商品を受注しなければならない。様々な企業に素材を提供してくれている東洋紡と一緒に営業をかけた。すると同じ滋賀県にある大手ベビー用品メーカーからチャイルドシートを受注した。下請け専業からの脱却だった。

直販への挑戦

「スマイルカーブ」というものがある。事業別収益性を表す曲線で、企画・開発や部品製造などの「川上」事業の収益性が高く、加工や組み立てなどの中間事業は収益性が低くなり、販売やメンテナンスなどの「川下」事業では再び収益性が高くなることを示すものだ。曲線が笑顔に見えるのでこの名がついた。


近江化成工業の主力の素材加工は、収益性の低い中間事業だった。これを変えたい。小林氏は動いた。川下を取りに行こう、と。


「自分たちで作ったものを自分たちの好きな価格で売れる小売業は魅力的です。それをネットでやると決めました」


たまたま採用した人間がウレタンメーカーで商品企画をやっていたこともラッキーだった。「ブレスエアー®」を使った寝具用カバーを作る会社などにも声をかけ、商品化が加速した。ホームページで販売も開始、2009年のことだった。


ネットショップは「爽快潔リビング」と名付けた。自社のECサイトを通じて自社製品を顧客に直接販売する、「D2C(Direct to Consumer:消費者直接取引)」への参入だ。

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しかし、最初の1年半位は売り上げはほとんど無く、閑古鳥が鳴いていた。それが一変して売り上げが急拡大した理由が2つあった。


1つは競合の存在。「ブレスエアー®」と構造が近似した素材を使ったマットレスがフィギュアスケーターを起用した宣伝とともに2007年に発売開始された。競合製品の人気が高まるのに合わせ、「ブレスエアー®」を使ったマットレスの認知度も向上していった。


2つ目が、2011年の東日本大震災だ。震災直後、日本は電力不足に陥り、一気に節電ムードが高まった。「ブレスエアー®」を使ったマットレスは通気性が良く、夏涼しいのでエアコンの使用を控えることになる。そうした動きを受け、素材を提供していた東洋紡が自社ブランドで節電用座布団やオフィスクッションを近江化成工業のサイトで売ることになった。


「これが結構売れまして、我々の存在を知ってくれたお客さんがリピートで来てくれたのが大きかった。その後、大きく販売が伸びることになりました」

姉との確執

しかし、順風満帆に思えた業績に暗い影を落とす出来事が続く。小林氏は重い口を開いた。


「次の困難は姉との確執です」


突然の言葉に驚いた。会社に入ってきた姉とのコミュニケーションがうまくできなかったという。


姉弟という近すぎる距離が災いし、ボタンの掛け違いが一旦起き始めると、そのすれ違いの距離は瞬く間に広がってしまった。


その不穏な空気は社内中に伝播し、そのせいで、「組織に澱が溜まって覇気のない状態」になってしまった。


「今から考えたら、組織作りという意味で本当にダメダメな経営者でした」


結局、姉には会社を辞めてもらうことになった。そして、子どもの頃あれだけ仲の良かった、たった一人の姉との縁は切れた。


さらに困難は続く。


2018年のこと。会社を根底から揺るがす事故が起きた。日本に一ヵ所しかない東洋紡の「ブレスエアー®」製造工場が、被災で全焼したのだ。

創業最大のピンチ

「今までの人生で色々な逆境がありました。でも、あの時ほど苦しい局面はありませんでしたね。被災した『ブレスエアー®』製造工場を再建するかどうかは、東洋紡さんの経営判断。先が全く見えない中、加工するモノもネットで売るモノもない苦しみや不安感は、筆舌に尽くしがたいものでした」

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そんな危機のなか、小林氏の心の支えになったのが大手牛丼チェーンの事例だった。

 

2003年末、米国でBSE(牛海綿状脳症)に感染した疑いのある牛が発見され、牛丼を主力とする外食大手は米国産牛肉の調達が不可能になった。2年半「原材料が入手できない」という点では小林氏の経営環境も似たような状況だ。

 

米国産牛肉輸入再開の目途が全く立たない中、社内では豪州等の代替え牛肉で対応すべきという声が大勢を占めた。しかし、当時の社長は、『当社の味は、米国産以外では出すことができない。代替品で対応することはお客さまを裏切ることだ。似て非なるモノには手を出さない。絶対に』と、信念は頑として曲げなかったことが知られている。

 

「危機に陥った時、トップが執るべき行動を学びました。また、社員数千人の危機を背負う経営者に比べたら、私の苦難は取るに足らないものだと思えるようになりました」

 

「それまでの蓄えと銀行借り入れを目一杯使えば、1年半売り上げがゼロでも会社は潰れない。それならば、社員全員とこの危機を一緒に乗り越えよう」

 

被災から一ヵ月。再建目途は依然立っていないものの、小林氏はそう腹をくくった。まさしく小林氏の心に「火がついた」。

「ネムリエ」誕生

被災で材料供給がストップしている期間、小林氏は商品の「売り方」を変えることに舵を切った。


ネムリエ」の誕生だ。


「ネムリエ」とは近江化成工業の「ブレスエアー®」を使った寝具の総称だ。

他の「ブレスエアー®」製寝具との差別化を図るためにはどうしたらいいか。

小林氏は従業員と共にP.ドラッカー氏の名著『マネジメント』を読み込み、「お客さんの本当に求めている価値」を突き詰めた。


そして、「ネット直販という利便性と価格優位性を活かしつつ、お客さんの(寝具の)使い方や環境をお聞きして、それに対して最適な使い方の提案をする」ビジネスモデルに行き着いた。


「ベッドを使っている人なら、今使っている寝具を捨てなくてもそのまま活用したらコストの削減になる。それぞれの環境の中で最適なご提案をするのが我々にできることなんじゃないか」


料理に合ったワインを勧めるエキスパートである「ソムリエ」転じて「ネムリエ」とネーミングしたのもそうした顧客本位の発想からだった。


幸い、「ブレスエアー®」工場は被災から1年後に再建。小林氏の想定より半年早く、「ブレスエアー®」事業を本格的に再開することができた。


そのタイミングに合わせ、今までにない全く新しいコンセプト「ネムリエ」の発売を開始した。するとお客さまからの声が格段に返ってくるようになった。今まで20人中1人も返ってこなかったものが、5人に1人になった。

その先へ

その後襲ったコロナ禍も、会社の業績にはマイナスではなかった。火事で供給が止まっていた分、バックオーダーが溜まっていたことが一因と小林氏は分析したが、コロナ禍で自宅にいる時間が伸び、睡眠環境の改善に人々の目が向いたこともあるのではないだろうか。


現在サイトでは「ネムリエ診断」という、体格や睡眠時の悩み、睡眠環境等を聞いて、最適な敷布団とその使い方をネムリエカウンセラーが提案するシステムを採用している。購入後も、新しい寝具に慣れるまでの間、身体に一番適した状態になるまでサポートするなど、寝具業界では類を見ないサービスだ。


顧客のニーズが蓄積されれば、CRM(顧客関係管理)に大きく貢献する。


しかし小林氏は「目標達成率は50%」と厳しい。


「今期の課題は『違いをとがらせること』です。お客さまの求める価値に基づいた違いは、いくつかご用意しています。その違いをつなげ、とがらせ、物語で伝えているつもりなのですが、お客さまの心にはその違いがまだまだ刺さっていないのが実情です」

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課題は多い。まず、「診断」を面倒くさい、と思う人をどう減らすか。購入後一ヵ月間のサポートを充実することで「返品率」をどうゼロに近づけるか。いま「ネムリエ」を使っている人がどうしたら家族や知人に勧めてくれるか、などだ。


興味深いのは最後の課題。「ネムリエ」の発想は、一度顧客になった人に商品の買い換えを勧めず、中芯の交換で済ませればよい、というものだ。


ネムリエマットレスの基本構造は、3つ折り式、そして中芯の「ブレスエアー®」は多層3分割構造。へたってきた部位の中芯を自宅で組み替えたり、中芯のみの購入ができたりするので、商品の買い替えをする必要がなくなるという発想だ。

 

これは究極的に顧客本位の商売といえるのではないか。だからこそ、拡販も、既存顧客に買い換えを勧めるより、「ネムリエ」のファンを増やす方向にシフトしているわけだ。


小林氏は、お客さまとの関係性を、4つの時間軸に分けている。買う前購入した時購入からひと月そして1年後だ。


「ヒトの重い体を毎日8時間支え続ける敷き寝具は過酷な使用環境なので、へたりやすいという宿命を背負っています。一方、使う方にとって本当に大切なのは、買った直後の寝心地より、良質な眠りの持続性です。1年後にも買ってよかったという言葉を頂ける商品とサービスの在り方を目指しています」


中小零細企業には「10年、30年、50年の壁」があると小林氏。たまたま家業に入り、父親とは違うビジネスをやったので、創業30年の壁は乗り越えることが出来た。50年の壁まであと10年。その時、小林氏は66歳になる。


そして小林氏は次なる挑戦について語ってくれた。


「実はこの素材で新しくやりたい夢があるのです。非常に工数がかかるものの、市場が小さく、ビジネス的には採算が厳しい事業領域なんですよね。しかし、その領域で困っている方への貢献度はとても大きくて社会的意義の高い事業です。ネムリエが軌道に乗って一段落したら、キャリアの最終ステージとしてその事業に専念したいなと思っています」

自身の事業承継について

小林氏には現在22歳になる長男がいる。子どもに会社を継がせようとは考えてないと言うが、自分自身も継ぐ気がなかったのに父親の会社を継いだのはなぜなのか、聞いてみた。


「本当に魔が差したとしか言いようがないんですよ。たぶん十何年前に戻ったら絶対継がないですよ。(笑) でも、今はあの時魔が差したから今があって、めちゃくちゃ楽しいですよ」


今、20人の社員のうち、リーダーが5人いるという。そのリーダーが中心となって事業を継いでくれれば、と考えている小林氏。しかし、今胸の中で温めているビジネスをいつか長男に継がせる時が来るかもしれない。自分が父親の仕事を継いだように。そして、10年後に来る創業50年の壁を乗り越えるために。

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