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大正7年(1918年)に創業した京屋染物店。現在は半纏(はんてん)、浴衣などの祭用品を中心に、アパレルブランドに向けたオリジナル生地も手がけ、岩手県一関市から日本全国、そして海外にもオリジナルの染物を発信している。デザインから染色、縫製まで一貫して自社工場で手がけ、グループウェアを駆使して業務の流れを見える化した。その先進的な取り組みもあって業績は好調。海外のアパレルブランドとの協業も進む。10年前まで家内工業だった染物屋は、いかにして独創的・自走的な集団に変貌したのか。4代目の蜂谷悠介氏に聞いた。
株式会社京屋染物店
代表取締役 蜂谷悠介氏(はちや・ゆうすけ)
1977年生まれ。岩手県出身。東北芸術工科大学在学時はWeb制作、デザインなどを手がけるベンチャーを起業。山形、岩手で活動する。2004年に家族が営む京屋染物店(当時は個人事業主)に入り。2010年、3代目の父・徹氏の逝去を経て4代目として承継する。法人化や縫製工場設立などを推し進め、業務改善を目指してサイボウズ社のビジネスグループウェア「kintone」を導入。2017年には「日本で最もインパクトのある業務改善を実現した企業」として「kintone AWARD 2017 グランプリ」を受賞している。
「染物という仕事のクリエイティブさを、お前はわかっていない」
京屋染物店代表の蜂谷悠介氏は、先代の父に言われた言葉を今も覚えている。 半纏、浴衣などの祭用品、伝統芸能衣装などの染物をオーダーメイドで手がけてきた。半纏を染め上げていく作業はいつも同じように思われるが、温度や湿度の違いで発色は微妙に異なる。染料の調合、染めのタイミングを微妙に調整し、いつもと同じ品質で染め上げる。これは伝統の技能、そして職人のキャリアがあってこそだ。
「いつも同じように見えるけど、同じ染め方は一つとしてない――これが親父の真意でした。弟子入り当時の私は反発するばかりでしたが、いろんな苦労を味わった今、親父が語っていた言葉の一つ一つが心に染みます」
城下町として栄え、武家屋敷や蔵が今なお残る岩手県一関市で大正7年に創業。4代目の蜂谷氏も、小学校の卒業文集に「将来は染物屋になる」と書いた。しかし、デザインを学ぶために進んだ大学ではWebコンテンツ、広告デザインを手がけるベンチャーを起業。若きクリエイターとして注目を集めた。
「地元メディアに取り上げられ、天狗になっていたのかも(笑)。しかし、何も成し遂げていないのにこれでいいのか、という悩みも抱えていました。そこに、地元で真摯に創作を続ける画家と出会い、大きな衝撃を受けたんです。周囲がどうなろうとも、最後まで貫き通せる仕事が自分にはあるのか?と」
「その時、思い出したのが実家の工場の風景です。煙草と染料がまじった匂いがする太い腕。ふわっと抱きかかえられたその先には、親父の笑顔がありました。いつも遊び場にしていた工場で、親父は手を色だらけにして働いて、染物に向かい合っていた。自分の原風景はそこにあったんです」
最後まで貫き通せる仕事、それは蜂谷家が家業として続けてきた「染物屋」に他ならない。あの工場へ帰ろう。育ててくれた親、周囲に感謝、恩返しをするのも、この工場なんだ…裸一貫で出直すべく、蜂谷氏は26歳で父のもとに弟子入りする。
初代が京屋染物店を創業した大正期、全国には1万4000軒もの染物屋があったという。しかし、21世紀を迎えた今日、染物を手がけるのはわずか300社。「実数の推移だけを見たら、衰退産業と定義されても仕方がない」と蜂谷氏。当時の京屋染物店も法人ではなく個人事業主。家族と昔からの職人だけで回す家内工業にすぎなかった。
「弟子入りしたのはいいんですが、当時の報酬はたった10万円でした。それもそのはず、半纏や法被などの注文も減少の一途。先はまったく見えません。私はかつて起業したときの経験を生かして、Webサイトからの受注を強化。販路の全国拡大をねらいました。家族で奮闘していたところ…親父のがんが判明したんです。宣告された余命は、わずか3ヵ月でした」
3代目の徹氏は2010年6月に他界。職人として一本立ちする間もなく4代目に就任した蜂谷氏だが、その翌年には東日本大震災が発生。全国の祭事は軒並み中止になり、半纏や法被など祭用品もキャンセルが相次いだ。京屋染物店はかつてない危機に直面する。
「染物の仕事はなかったのですが、故郷が見舞われた甚大な被害を見過ごすこともできません。津波に襲われた地域にボランティアに出た私は、そこで『一刻も早く祭りを復活させたい。地域のみんながまた一つになって盛り上がりたい』という人たちの声を聞きました」
「この思いがある限り、地域の皆さんの大事な祭り、催しがなくなることはない。そして、祭りの輪の一つには、自分たちが手がける染物が必ず寄り添っています。震災によるダメージは確かにつらい。だけど、祭りにかける人たちが全国各地にいます。その熱い思いを、私たちもずっと支えていかなければなりません」
蜂谷氏は京屋染物店を法人として再起動する。工場を改修・拡張して縫製工場も設立。これまで外注していた縫製も内製化し、営業からデザイン・染色・縫製まで自社で一貫して手がけられる体制を確立した。
営業や販売促進のチームも強化が進む。日用品ブランド「en・nichi」を立ち上げ、オリジナルの日常ウェアを提案。パリに営業拠点を構え、ヨーロッパのアパレルブランドと協業で商品を開発している。
「en・nichiシリーズの普段着『SAPPAKAMA』は2019年度グッドデザイン賞を受賞しました。この商品を企画し、グッドデザイン賞に応募したのは入社2年目の社員です。ヨーロッパでの販路開拓、パリ営業所の開設も社員が自ら企画し、実行しました。メンバー一人一人が自立し、自走していく。そんなチームになるまでは、一山も二山もありました」
法人化を果たし、工場を拡張した発展期には社長が先頭に立って社員を鼓舞し続けていた。朝から夜まで寝る間も惜しんで長時間労働。そのモーレツぶりに社内の空気は沈滞し、「社長にはついていけない」「社長のようにはなりたくない」と社員に言われたこともあったという。
「社長たるもの、社員の前では泣き言一つ漏らしてはいけない。威厳がなければいけない。そんな思いが強すぎ、社員の気持ちをわかろうとしていなかった。将来のビジョンを共有しようとしていなかった。そんな自分がいました。経営のすべてを抱え込み、ただひたすらに進んでいく。そんなトップについて行こうと思う社員はいませんよね」
「私はある日、みんなの前で『俺だってすべてが初めてのことだらけで、何もわからずやっているんだ。本当は助けてほしいんだ』と涙ながらに話しました。腹の中をさらけ出し、どんな組織をつくっていきたいのか、とことん話し合ったんです。進路やビジョンを共有し、全力でサポートし合う――今につながるチームの土台が、この時にできあがったと思います」
京屋染物店は社員16名という規模だが、営業チーム、デザインチーム、縫製工場、染色工場はそれぞれ離れた場所にあり、進捗状況の共有に問題があった。営業チームは工場の繁忙状況を把握しないまま受注に励み、工場ではいつどれだけのオーダーが入るのか不明なまま縫製・染色ラインが稼働する。結果として、正確な納期の見積もりができず、急な注文にも対応できない。現場には生地の在庫が積み上がる…そんな課題が山積していたのだ。
そこで、各チームの状況を共有し、進捗を管理できるグループウェア「kintone」を導入。営業・デザイン・染色・縫製の各ラインの流れはアプリ上で見える化された。スタッフはタブレットから製品の最終納期や部署ごとの納期、進捗状況をチェック。進捗はグラフによってビジュアル表示されており、社内で進むすべての案件が、それぞれどの工程にあるのかが一目でわかる。
「kintoneの導入前は、部署ごとに独自に業務を進めていたため、それぞれ良かれと思ってスケジュール、在庫に余裕を持たせていました。その流れを見える化し、共有できたことには大きな意義がありました。部署ごとの納期を共有しているので、お客様への納期が正確に見積もれる。短納期の依頼にも対応できるようになり、スタッフの労働時間そのものも減らせています。さらに余計な在庫を持つ必要もなくなったため、一つの倉庫を撤去。スペースを拡充し、各部署が一つの空間で作業できるようになりました」
2019年はkintone導入前の200%増に。業績は着実に上がりつつあり、一体感を強めた社内の士気も高い。しかし、「ICTツールを導入しただけで課題が解決できたわけではない」と蜂谷氏。
kintone導入前には模造紙と付箋で全体の流れの管理に努めたこともあった。また、100万円以上というコストをかけてITシステムを導入したことも。しかし、それらは社員から理解を得られず、不満が続出。現場に定着することはなかった。
「付箋のアナログ共有も、高価なITシステムも、私がトップダウンで進めたものでした。何のために導入するのか?これによってどんなメリットがあるのか?社員のみんなが理解しないまま現場に落とし込んでしまっていた。それでは効果も上がりません。kintoneは社員みんなが納得し、理解した上で導入が進められました。工程の流れを見える化し、全員の力を合わせるため、導入のゴールがみんなで共有できていたんです。システムは、あくまで社員が使う『ツール』にすぎません。導入ありきになっては本末転倒なのです。みんなが腹落ちした上で導入するのが望ましいでしょう」
カジュアルな衣料を現代に提案しながら、パリを拠点にグローバルな協業も進む京屋染物店。日本の祭りを支え、伝統の日用品を届ける「和の追求」を理念に据えつつ、「世界を彩る染物屋」というビジョンも掲げる。
「染物という仕事のクリエイティブさを。お前はわかっていない」
亡き父の言葉を思い起こす蜂谷氏は、古くて新しい「クリエイティブ」をチーム一丸となって追求し続けていく。
「社員と腹を割って話し合った私は、みんなと一緒に『京屋染物店の10年年表』をつくりました。みんながどうなったら最高か、どんなことで仕事に喜びを感じられるのかを出し合ったんです。そこには『年収1000万円を超えたい』『三代目J Soul Brothersの手ぬぐいをつくりたい』など、さまざまな想いが書き込まれました。『世界を彩る染物屋』として国、世代を越えたお客様に提案を続けることで、社員同士が絆で結ばれ、夢を実現する組織の未来が見えてくるでしょう」
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