制度を活用する企業が急増!企業版「ふるさと納税」のしくみとメリット
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「前掛け」を世界に広めたい。そんな思いをもって日夜奔走している人がいると聞いた。幼少期の記憶をたどると、昔は米屋、酒屋、八百屋・・・商売人はみな前掛けをしていたような気がする。しかし、最近はとんと見なくなった。なぜ、前掛けを扱うようになったのか。愛知県豊橋にある、有限会社エニシングの工場で西村和弘社長に会いに向かった。
西村氏は起業する前、株式会社江崎グリコに勤めていた。そう、あのお菓子のグリコだ。その西村氏がなぜ前掛けビジネスに身を投じたのか。
「前掛けは全く考えていませんでしたね。ただ、グリコにいた時から、日本の文化を広めるような仕事をしたいとは思っていました」
起業の動機は、西村氏のルーツに関係がある。
「私は広島の原爆ドームのすぐ近くで生まれたのです。家族はみな被爆者なんですよ。クラスメートも被爆者の子どもたちばかりで」
広島には海外の人が多く訪れる。戦争、アメリカ、日本・・・子ども心に日本文化の海外発信を意識して育ったという。
会社を辞めて独立。まず、漢字Tシャツを作り、店舗と通販で販売を始めた。2001年のことだ。
転機となったのは2004年の秋。たまたま前掛けを一商品として売り出した。その時は、前掛けがメインになるなど思いもよらなかった。
西村氏はふと考えた。
「前掛けは一体どこで作っているのだろう?」
問屋に聞いても、繊維組合に聞いても誰も知らない。ますます知りたくなった。半年かけて、ようやく愛知県豊橋市が前掛けの産地だと分かった。
「豊橋に来たら、今まで日本橋の問屋に頼んでいた前掛けの型紙が全部揃っていたのです。で、工場の人たちに言われましたね。『お前らか、最近よく発注するのは』って(笑)」
その工場の従業員はみな7,80代。一番若い人で56歳だった。彼らは西村氏にこう言った。
「君らもこういう仕事はやめたほうがいいよ。先がないし、前掛けなんて買う人いないよ」
その時、西村氏があきらめていたら今は無かったろう。むしろ、「これはチャンスだ、面白い」
そう、確信した。
前掛けは最初から売れたわけではなかった。当初の売れ行きは月10枚程度。地味にどぶ板営業を続けて数年経ったころ、チャンスが訪れる。なんと広島カープが球団グッズとして採用してくれたのだ。地元のテレビに取り上げられると、販売に火が付いた。気がついたら、月1000枚も注文が来るようになり、その後、売り上げは倍々ゲーム、とうとう月1万枚近くにまでなった。2013年になっていた。
ところで、工場の持ち主は豊橋最後の前掛け職人だった。その時64歳。70歳になったらやめたいと漏らしていた。
前掛け工場がなくなるのは困る。自分が引き継ぐしかない。そう心に決めた西村氏にその人はこういったという。
「こういう職人仕事は人を育てるのに10年かかる。それをやる覚悟があるのか?」
「もちろんあります」
即答した。その工場の機械、すべて引き継ぐことを決めた瞬間だった。
前掛けを作るため織機をすべて買い取ることにした。そうと決めたら早速職人を育てなければならない。2013年に募集をかけたら全国から応募が。1人ずつ採用して4人になった。5年経ち、2018年。彼らも技術を身に着けたころ、満を持して新たに工場を建てた。豊橋から一駅の二川駅近く、新幹線の高架脇の広い土地がラッキーなことに見つかったのだ。
会社そのものを承継したのではなく、設備だけを買い取って新規事業に乗り出したわけだが、工場用地は予定したものより3倍もの広さ。一括購入が条件だったため、膨大な資金を集めねばならなかった。そのプレッシャーから体重が7キロも落ちたという。
そんな時、思い余って故郷広島の大先輩である経営者に相談した。彼の一言が西村氏を救うことになる。
「何億かかるんや。必要な金じゃったら借りんとだめじゃろ。1億も2億も10億も同じじゃ」
目からうろこだった。
「私利私欲のためにやってるわけじゃあない。これは絶対必要な金なんだ。本物の経営者ってこんな考え方してるのか」
西村氏の中で何かが変わった。経営者として吹っ切れた。
新工場が稼働を始めると、地元が湧きたった。なにせ、55年ぶりに豊橋に繊維工場ができたのだ。地元の新聞に載り、NHKまで取材に来た。
するとどうだろう。うれしいことが次々と起き始めた。一つは、昔この地で仕事をしていたベテラン職人さん達から連絡が来始めたこと。ただで技術を伝承してくれるありがたい存在。その中の一人は技術顧問として会社に入ってもらった。
もう一つは、トヨタ自動車株式会社の豊田章男社長が訪問したいという話が舞い込んできたこと。エニシングが引き取った設備のうち4台が、豊田佐吉氏が創業した株式会社豊田自動織機の機械だった。それがまだ奇跡的に現役で動いていることが、トヨタの耳に入ったのだ。章男社長の訪問はまだ(2022年10月時点)かなっていないが、同社から色々な仕事を受注するまでになった。
エニシングはアメリカ・ニューヨークで前掛けの販売に挑戦したことがある。2009年から4年間、トライしたがさっぱり売れなかった。
そこで戦略を転換、市場をイギリスに切り替えた。パッケージも工夫し、お店に置いてもらいやすいようにした。すると、映画の制作会社の目に留まり、なんと去年秋公開の「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」に採用されたのだ。ベン・ウィショー扮する武器開発担当の「Q(キュー)」がエニシングの前掛けを着けていた。
2018年から欧州最大級のインテリア・デザイン見本市「メゾン・エ・オブジェ」に出展し始め、徐々にエニシングのブランドも知られるようになってきた。今では海外市場の売れ行きは全体の3割にまで達する。来年にはフランスに事務所を作り、海外事業の拡大を狙う。
国内では、昨今のアウトドアブームが前掛けの需要に火をつけた。
「今の若い人は先入観がないので、かっこいいって買ってくれるのが僕らにとってうれしいですね」
エニシングの売り上げはコロナ禍でも伸び続けている。インバウンド需要が落ちても、海外需要が下支えしてくれている。西村氏がコロナ禍にも関わらず、足しげくフランスの展示会に足を運んだたまものだ。
「2020年9月の『メゾン・エ・オブジェ』に出展した日本企業はたったの2社だけでした。いつもは100社くらいいるのに、です。うちもそれでぐっと伸びましたね」
西村氏の今後の事業展開は一風変わっている。敷地に建てようとしているのは工場ではないのだ。その名も「ファブリックラボ」。
世界中のバイヤーやデザイナーがこのラボに来て研究開発し、エニシングが100年前の織機で作った生地を販売するビジネスモデルを西村氏は描く。
すでにスペインの建材メーカーからインテリア用生地の試作品を受注しており、その生地を見せてもらった。古い欧州のタペストリーのような風合いだ。毛糸と綿と和紙が混ざっている。100年前の織機だから織ることができるという。ゆっくり織る
ことができるため、小ロットのオーダーでも受けることができる。
「こういう発想の工場ってないと思います。そんな小ロットで頼めるところはうちぐらいですから。僕ら、先入観ないからできるんでしょうね」
要は受注生産だ。競合もないため、価格を高く設定できる。高い利益率が期待できるビジネスモデルだ。
「昔いたグリコはプル戦略なんです。営業に行くな、知恵を使えと教えられました。それくらい魅力的なものを作れ、と。ですから今、うちに営業マンは一人もいません。問い合わせがあったら対応するというやり方です」
こうしたエニシングの経営戦略は他の中小企業にとっても大いに参考になるのではないだろうか。西村氏は日本には大きなチャンスが転がっていると見ている。なぜなら、多くの町工場が残っているからだ。
「製造業のような3Kの仕事に人は来ないと思われていますが、それをR&D(研究開発)型企業にすれば多くの人が応募してきます。うちがそうでした」
「日本はクラフト型のものづくり、大量生産ではない少量生産のものづくりができる、ものすごく良い国だと思いますね。町工場というインフラがあるのですから」
日本にとっては「大チャンス」だと西村氏は繰り返した。
西村氏には3人の息子がいる。みな父親の仕事には興味を持っている。一番上の子が高校生だが、既に海外に行ってみたいとか。経営をしてみたいとか、話しているという。
「自分はまだ49歳なんで、あと20年は頑張りたいですね」
話を聞いていてふと、「パリコレにエニシングが進出するのでは?」そんな予感が頭をよぎった。
その可能性を聞いてみたら、西村氏はこともなげにこう言った。
「ありうると思っています。僕らのアドバイザーであるフランス人が、『おい、エルメスもめちゃくちゃ興味を持ってるぞ』って言うんですよ。来年1月には会うことになっています」
どうやら夢の実現はそう遠くないようだ。エニシングは「縁(えにし)+ing」。人との縁で、前掛けビジネスは進化し、さらなる飛躍を目指す。
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