制度を活用する企業が急増!企業版「ふるさと納税」のしくみとメリット
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石川県金沢市で創業した宗重商店は、解体業の専門会社として83年の歴史を持つパイオニアだ。現在、基幹の解体工事から派生した9つの新規事業を展開し、更に海外へも目を向けて事業を拡げている。3Kだと言われた解体業を「問題解決型サービス業」へと昇華させてきた3代目社長の宗守重泰氏に事業承継や新しい事業転換のきっかけとなった話を聞いてみた。
昭和の初め古物商から事業をスタートさせたのは、宗守社長の祖父、徳太郎氏だった。
「その当時の作業日誌を見ると、建物を取り壊したあと、次の建築にその古材を生かしてつなぐことのできる専門業者は非常に少なかったらしく、東京の皇居や省庁の建物の解体のお手伝いなどもさせていただいていたようです」
その頃の日本はとても貧しく、資材も限られていたため、柱一本、瓦一枚、釘一本に至るまで大切に保管し、次の建物を作るときの材料にしていたという。
「それが高度成長期になると大量生産、大量消費が美徳とされ、リサイクルは行われなくなりました。そこで、わが社も解体だけを担う専門業者に形を変えていきました」
建物を取り壊すことはもちろんだが、その後大量に出る廃棄物を運搬し、正しく処理するのも大切な仕事だった。
「2代目の社長を継いだ父、徳郎は時代の波に乗り、業務拡大にまい進しました。金沢の冬は雪が多く仕事ができないので、滋賀県で得意先を開拓して営業所を開設。毎朝4時起きで現場に通っていました」
当時「宗重の下請けをすれば家が建つ」と協力会社に言われたほど発注が増え、右肩上がりで業績も伸びていった。
「働き者の父でしたが、根っからのお人好しで、疑うことを知らない人でした。尊敬できる点でもありますが、その性格が災いして1998年に産業廃棄物詐欺事件に巻き込まれてしまったのです」
解体で発生する廃棄物の処理を委託した協力会社が何年にもわたって中間処理をきちんとしないまま、山奥にごみとして放置していたのだ。そして、それが発覚すると雲隠れした。
「市からは行政措置命令がきて、その廃棄物を期限までにきちんと処理しないと許可を取り消すというのです」
当時の年間売り上げが3億円ほどだったのに、大量の廃棄物を山から運び出して、分別し、もう一度破棄するのに4億円近くかかったという。
「許可をはく奪されたら自己破産するしか道はないという重圧とストレスで父は体調を崩してしまいました」
大学卒業後は地元の百貨店に入社し、食品フロアで催事の責任者として働いていた重泰氏は、その当時、会社に起きている事件や内情を全く知らなかった。しかし、父から頼まれて、経験も知識もなかった家業に飛び込むことになった。
「父不在のなか、目の前に起こるやるべきことを見つけては、乗り越える毎日でした。解体事業って騒音や振動、粉塵という三大公害と切っても切り離せない仕事なので、近隣にご迷惑をおかけしているんです。その認識をもって仕事をするのが大事なんだという心構えを説くところから取り組み始めました」
ベテランの従業員に「近隣のかたに挨拶をしよう」「ヘルメットをきちんとかぶろう」「くわえたばこで作業するのはやめよう」というようなことを、一日10回も20回も言って回って、自分の考えを伝えた。無我夢中で3年が過ぎた2002年、格好のチャンスが訪れた。
「建設リサイクル法という大きな法律改正があり、解体業者にコンプライアンスが求められたのです。分別して廃棄するのはもちろん、業界に厳しいルールや規制が作られました」
大学で規制緩和を学び、就職してからはサービス業の神髄を叩き込まれてきたので、コンプライアンスのなんたるかはよくわかっている。もともと周りを巻き込みながら、みんなが笑顔になるために仕事をするのが自分の喜びであり、仕事のやりがいという性質だった。
「建設業界や同業他社が、このリサイクル法の理解に手こずるなか、いち早くそれを理解し、対応できました。そのことで、周囲の方から信頼され、お得意さまを開拓することもでき、自分の自信にもなりました」
2007年会社の法人化を果たし、事業承継も行い、名実ともに3代目の社長になった。
「自分ではその時が、第二創業だったと思っています。今までのどんぶり勘定を改めて、計画的に社員を採用して、自社で重機や車両を持って事業を内製化することで、会社に利益を確保する体質に少しずつ変えていきました」
2008年、リサイクルセンターを開設し、解体した木材をチップにしたり、混合廃棄物を選別する中間処理施設をまず始めた。
「その後、地盤改良事業や、ライフサポート事業、幼児教育事業やメロンパンアイスの販売なんていう畑違いのこともやりました。手掛けたことが全部うまくいったわけではありません」
しかし新しいことに取り組んだおかげで得たものも大きかった。
「今まで私は自分のことを解体屋だと思ったことは一度もないんですよ。でも自分はどうせ裏方だっていう意識の社員は多かったと思う。そのおじさんたちが、メロンパンアイスの販売応援に行って、ハンチング帽をかぶって店番をしたら、女子高生たちから写真を撮られてツイッターに載ったりしている。解体しているだけでは喜んでもらえないお客さまから、ありがとうって言ってもらえる経験をした歓びは大きかったですね」
社内に「新しいことにチャレンジしてもいいんだ」「解体だけをやっている会社じゃない」という風土が生まれたのだという。「スタ★アトピッチJAPAN」第3回の中部ブロック大会で優秀賞を受賞した「ラクソツ」という不要品事業も入社3年目の女性の発案だ。
「大学入学時に購入した電化製品は、4年後卒業時の引っ越しで放置されるケースが多くて困っていると不動産管理会社に相談を受けました。そこで、引っ越し時に出る不要品の分別をし、ごみは処分し、まだ使えるものは買い取ってワンストップでリサイクルする事業を始めました」
そのほかにも、一般の家庭向け不要品回収「ラクステ」や遺品整理を請け負う「オモイデ×トトノエ」、リユースショップ「ラクマル倉庫」の運営なども手掛けている。
「技能実習生を受け入れたことで、海外へ不要品を販売するルートもできつつあります」
日本で不要品とされるものも、東南アジアでは必要としている人がたくさんいる。
「『もったいない』から世界をつなぐという理念で、将来的には、リサイクル事業で日本と世界を結び、現地で仕事を作り、雇用を生み、人財を育てたいと考えています」
循環型社会を目指す世界の流れは、今後大きく進みこそすれ、後退することはない。
「私たちが多角的にSDGsに取り組み、リサイクル、リユースなどのReを創造しクリエイトすることで地元に貢献し、お客さまの悩みが解決することに私たちの存在意義があるのだと思っています」
「困ったな」と思ったときに最初に声をかけていただける。それが宗重商店の目指している企業の姿だ。そしてそれが地域のみならず、世界の問題解決につながり、よりよい地球環境という未来を子孫に残すことになると信じている。
「モノを大切にして次につなげ、できるだけ活用するための資源の循環サイクルをつくること。それは決して新しいことではなく、宗重商店が創業した時の原点の心なのです」
創業した時から、地域の街づくりに貢献し、人々を支え共生してきたという自負がある。
「今後は100年企業を目指し、関わる全ての人を笑顔にするために自社の仕事にプライドと自信をもって、会社の成長を自分たちが楽しめるようにしていきたいのです」
お客さまの声をお聞かせください。
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