インボイス制度導入でどうなる? 税務調査の方針と留意すべきポイント
- 税制・財務
- 専門家に聞く
サウスパシフィックフリーバード株式会社が手掛けるフィジーの語学学校は、設立17年目を迎えた。その立ち上げ時から学校運営を支える現地スタッフのヨンスク・ジョさんと東京オフィスで長年、財務を担ってきた宮村美帆さんに、谷口社長の発病から闘病中、そして仕事に復帰するまでに感じた従業員としての思いを聞いてみた。
ヨンスク(以下、スク):フィジーで語学学校を経営したいと考える日本人や、韓国や中国の方は他にもいましたが、みな途中で挫折してしまいます。時間の感覚や習慣が違うフィジー人と仕事をするのは非常に難しいので、外資系企業が入りにくい国だと言われていますからね。その中で谷口社長(以下、社長)は、粘り強く学校を立ち上げました。外資のやり方を上手く入れていく腕力は、ダントツだと思います。フィジーでは前向きな意味で、変わった経営者として有名です。
宮村:社長は非常に個性が強い、会社の大きな幹のような存在です。やっぱりそこにいてくれないと日本もフィジーも動いていかない。瞬間的に非常に深くものを見て行動する力と諦めない強い気持ちが、会社を支えています。宇宙人のようなところがあるので従業員がその思考を理解できないこともあります。私たちはお客さまにとって何がベストかを常に考え、谷口イズムという劇薬を時に入れながらうまく会社を運営できたらと思っています。
スク:長い間先頭に立って、会社を引っ張っているカリスマ経営者ですから、あまり周囲のことを見ないし考えない。でもその、とことん前へ進めていく力に圧倒されて、みなが力を貸してしまうのです。よく考えたら普通じゃないことも、社長の強い思いを感じて、結局この人についていきたい、一緒に頑張りたいという気持ちにさせられてしまうんです。
宮村:2016年1月、病院に検査結果を聞きにいった社長が軽い感じで「いや、実は来月入院しなきゃいけないかも」と言ったんです。その時はあまり真剣みが伝わってこなかったので、「本当ですか」と聞き返したぐらいでした。話が「君たちとは死生観が違う」という大演説になって論点がずれていくので、ステージ4の末期がんで大変な状況だという認識をあまり持てませんでした。その後も毎日普通に出社していましたし、全く現実感がなかったんです。
スク:社長が本を出版するタイミングだったので、成長物語にしたくて、がんだと言ってるのかな?何かまた勘違いしているのだろうくらいで半信半疑でした。
宮村:いよいよ入院するという前日になって、「復帰できるかどうかわからないよ」なんて、これも軽く言うので、ここで初めて「社長はどうなるのだろう」「会社はどうしたらいいのか」と考えたくらいだったんです。
スク:社長が元気になるまで、現地は現地で頑張ろうって雰囲気になったので、しばらくは仕事だけに集中できて、かえってうまくやれたんです。でも時間がたつにつれて、谷口バッテリーが切れたときに、私たちには充電できるところがどこにもなくなるんだと気が付きました。
宮村:社長が体調を崩してこうなる前に、何かあったときに事業の継続をどうするかという話をしておくべきだったと反省しました。やはり病気が発覚してからでは、とても聞きづらいですよね。本当に戻ってきてほしいと思っていました。それは疑いもない事実。でも会社は株主の方含め多くの人が関わっているので、次の経営者を立てないといけないのかなと悩みました。ちょうど入院の翌月に株主総会があったのでそこで、「こういう質問事項が出るかもしれません」と事業承継についてという項目を入れました。そのときは、「備えあれば憂いなし」って本当なんだなと痛感しました。
スク:そのころ現地はとても忙しくて、学校を運営するので精一杯でした。社長の病状の情報は入ってこないし、先のことまでは考えられなかった。でも現地の校長が日本にお見舞いに行くことになって、学校はこれからどうなるのだろうと徐々に思い始めていました。
宮村:入院後、社長からフィジーで会社を上場させたいという話を聞いて、少し生き急がれているのかなという感覚を覚えました。特に抗がん剤治療に入ってからは、今まで我々が知らなかった、弱った社長がいましたね。あるとき、病院にいる社長から社員あてに差し入れと手紙が届いたんです。日頃手紙など書かない人が、手書きで全員の名前を一生懸命書いてくれて、「応援ありがとう…復帰にはあと2か月くらいかかると思うけど…部屋で仕事はできています」なんて書いてある。でもちょっと筆圧に力がないんです。その手紙は、今でも大切に持っています。
スク:つらい治療を乗り越えて、絶対に戻るんだという気持ちが強かったんでしょうね。
回復してから初めてフィジーのフリーバードのオフィスで会ったときのことは今でも覚えています。本当に本当に大変だったんだなということがわかって、いろんな気持ちと一緒にこみ上げるものがありましたね。ずっと昔から「俺はスーパーマンだから死なない」って言ってたんですね。本当に、言ったとおりになったんだなって思って(涙)。そして「社長、すごいです。本当によく頑張りましたね」とその場で伝えました。
宮村:東京でも全員が「お帰りなさい」と迎えました。「ただいま」って言ってくれるかなと思いきや、照れて何も言わず自席で、約7カ月ぶりなのに、普段通りに仕事を始めましたね。でもまだまだ心配で、「もっとゆっくり休んでください」と伝えました。社長がよく「自分は高いビルから落ちても、下にふわっとフランスベッドが入ってきて生き残るんだ」という話を社員にするんです。伝説の一言と言われているんですが、これって究極の自己暗示なのかもしれない。そのときも全部好転させるすごい人だなと思いました。
スク:フィジーでは、すぐに以前のミスターヒロシに戻って、「いかに自分が医者よりがんに詳しいか」を力説していましたね。それを見て、「あー本当に社長が戻ってきた」って安心しました。でもやっぱりちょっと以前よりは性格が丸くなった気がするんですよ。人に対しての気配りとか、言葉の使い方が優しくなりましたね。
宮村:退院後すぐの2017年2月には、フィジーで株式上場を成し遂げました。その式典に株主を招待したいと社長が言い出して、大急ぎで準備を進めました。当日は、社長も思うところがあったのだと思います。涙を見せていましたね。
スク:今では社長から新しい指示がまたポンポン出てきて、私たちはてんてこ舞いです。コロナ禍で、フィジーに留学したい学生のためにチャーターフライトを飛ばしたり、学食に取り入れた製麺機でうどんを作ってフィジーに広めようと、「NINJA UDON」という食堂も始めました。JALと一緒に自動車免許を取得したフィジー人を空港で雇うプロジェクトも立ち上がり、そのための自動車学校経営も始まりました。
宮村:もともと健康管理や食事には一家言おありだった社長が、大病を経験してから、社員全員の健康にまで気を配ってくれるようになりました。でもその新しく作った健康手当てにも谷口ルールがあって、「たばこを吸う人はマイナス1ポイント」のように決まりごとがあるんです。その中に「裸眼でなければならない」というのがあって、会社のほとんどの人が眼鏡をかけているので「不評です」と伝えたら、「目が悪い奴は、昔ならライオンに食い殺されとる」って。(笑)「今、ライオンいないじゃないですか!」というやりとりが社内で繰り広げられています。そういう話がでると「あ~本当に元気になったんだな」と思いますね。
スク:社長の昔からの夢に「日本にたくさんのフィジー人に行ってもらって、フィジー村を作りたい」というのがあります。少子高齢化の日本に多産のフィジー人に住んでもらえば、人口が増えるし、両方の国が助かる。今、フィジーで日本語学校を始めたのはその第一歩です。その夢は私も一緒に必ず、かなえたいと思っています。
宮村:やりたいことは、とどまるところを知らないのですが、夢を描くだけでなく、本当にやってしまうのが社長のすごいところです。これだけは誰もまねできないですね。
スク:社長は、ようやく去年結婚しました。ぜひ頑張って後継ぎを作って、夢をつなげてほしいです。70歳までは頑張って仕事を続けてもらわなくてはいけなくなりますけどね。スーパーマン・ヒロシだから大丈夫だと信じてついていきます。
この記事は参考になりましたか?