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事業承継「失敗からの再生」日本電鍍株式会社

  • 40-50代
  • 製造業
  • 関東
  • 女性経営者
  • 後継者

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敏腕経営者の死亡により経営が一気に傾くことは稀ではない。時には経営者家族が住む家や先祖から受け継いだ大切な財産を失うこともある。今回は、日本の高度成長期をかけ抜けた創業社長を亡くした後、事業承継に失敗して運転資金ゼロになる事態に陥った会社を見事に復活・再生させた女性経営者の事例を紹介しよう。いったい彼女は瀕死の状態の経営をなぜ引き受け、どのように建て直していったのだろうか?


聞き手:土肥正弘(ライター)
記事内の全ての写真©Japan In-depth編集部

「失敗からの再生」日本電鍍株式会社

写真)日本電鍍株式会社 伊藤麻美社長

宝飾ビジネス夢見た才媛がめっき会社の経営者になったわけ

東京・六本木で生まれ、幼少期はインターナショナルスクール、大学は上智大学外国語学部で過ごし、卒業後はラジオパーソナリティとして活躍した伊藤麻美さんは、1956年創業の電気めっき会社、日本電鍍工業株式会社を経営する父親の経済的支援を受けながら、欧米流の教育を受けて育った「お嬢様」だ。


23歳の時に父親は他界したが、存命中に従業員から次期社長が指名されており、その後紆余曲折を経て社長が何度か代替わりしつつも、事業は継続されていた。その間、家族から経営参加を求められることもなく、伊藤さんは宝飾ビジネスのプロになる夢を叶えるべく、30代でアメリカに留学してジュエラー(宝飾鑑定士)の資格を取得、2000年には世界ブランドのカルティエ社長に認められてプロとしてのキャリアスタート目前になっていた。


まさにその時、日本から1本の電話が入った。「会社の事業がうまくいかず、家を売却しなくてはいけない。急いで帰って来て!


伊藤さんは愕然とした。日本電鍍はもともと独自技術による貴金属めっきに定評があり、高級時計の加工を主事業に、一時は50億円規模の売上があった業界では有名な会社である。創業社長である父親が亡くなろうと、経営は適任者に承継され、会社は立派に存続していくものと思っていた。会社経営については何ひとつ知らされていなかった伊藤さんは、生まれ育った六本木の自宅に抵当権が設定されていたこと、そして会社の経営不振により借入金返済のために立ち退きか売却かを迫られるほどの事態になっていることを初めて知った。 「どうにか家を守りたい」。その一心で帰国した伊藤さんの目前に、非情な現実が待っていた。

「失敗からの再生」日本電鍍株式会社

創業社長亡き後の放漫経営

父親に信頼されていた後継社長は、優れたビジネス感覚を持っていた父親のもとで忠実に戦略を実行することに長けていたものの、亡き後の時代変化に即した事業戦略にことごとく失敗していたのだった。バブル後の消費の急激な冷え込みを前に、長年同社の成長を支えてきた高級時計への貴金属めっきの発注は海外にシフト、受注量が減少するなかで後継経営者たちは既存事業にこだわり、ずさんな経営計画のもとで10億円もの投資をして新工場を設立していた。


十数年前から赤字決算を続け、自転車操業をする中で、打開策としてとったのは人員削減だった。業績悪化にともない自主退職者も続出して、200名ほどいた社員は2000年時点では約50名に減り、残った社員の平均年齢は59歳となっていた。


かつてはほぼ無借金経営だったのが、この時点では借入金が10億円以上に膨らんでいた。逼迫する運転資金を捻出するために、創業社長は決して振りださなかった融通手形を乱発してもいた。債務超過にまでは陥っていなかったものの、金融機関の信用はすでに失い、折からの「不良債権問題」解決の圧力の中で、一括返済を求められれば会社整理に至る可能性さえ現実のものになっていたのである。


もともと同社経営への興味はなかった伊藤さんだが、帰国してこの現実を知り、生まれて初めて会社の工場で働く人々と触れ合ううちに、自分自身の夢を追い続けたこれまでの人生観が徐々に変わってきた。「父親が人生を賭けて大きくしてきた会社がなくなってよいのか。仕事を失う従業員とその家族の生活はどうなるのか」。これを考えると、会社整理という選択肢はとうてい選べないものに思えてきた。

会社再建に向けた一世一代のチャレンジを開始

「会社の幕引きをどうするのかをテーマに会議が開かれました。そこで実情を聞くうちに、会社を残せばどうしても生家から立ち退かなければならなくなることを納得しましたが、むしろこの会社をなくさないためにどうすればよいかを考えました。家は買い戻せるかもしれないが、会社がなくなれば社員とその家族の運命が大きく変わってしまい、取り返しはつきません。ここまで経営を悪化させた幹部社員に会社を任せるわけにはいきませんし、外部から社長を迎えるのも現実的でなく、誰が経営者になれるかと考えると、私以外には誰もいません。


会社経営の経験は少しもありませんが、社員とその家族の運命を変えることができるのは私だけ。そう思うと、父親が作った会社なのだから私が再建することができるはずだという思いが湧き上がってきたのです。私にはお金はなくとも、両親が与えてくれた素晴らしい教育という財産がある。それを武器にチャレンジしよう。一度だけの人生、勝負をかけるのは今だと決心しました」。


父親が背負ってきたものの重さを初めて理解した伊藤さんは、この時点で家の売却はもちろん、自己破産をも覚悟したという。「すべてをなくしても命は残る」。その思いで死に物狂いの再建が始まった。


手元資金はゼロである。税金や社会保障の支払いは全部止め、手形の割引を求め、知己を頼って借金を頼み込んだ。年金暮らしのおばあさんが数百万円を貸してくれたこともあった一方、「困った時には相談にのる」と言ってくれた上場会社役員は決算書を見て「It’s natural=自然のままに!」とひと言。何も手を貸してくれなかった。「今に見ていろ!と思いましたね。でもプライドを捨てて資金調達していくうちに、心ある人との出会いが増えていき、どうにか運転資金を集めることができました」。


その一方、人員整理だけは絶対にしなかった。「社員は会社の大切な財産。その背後の家族の皆さんの生活を守らなければなりません」。父親の生前から会社に尽くしてきた社員を切り捨てるものかと、人件費削減よりも新規事業開拓での売上向上を目指した。


「会社とは無関係に生きてきた私だからこそ見えるものがある。外の世界と比較して事業を客観的に見ると、ベテラン社員が言う『強み』とは別に、社員が気付いていない『強み』があることに気づきました。設備投資できない状況でも、手作業で行うめっきには、機械による大量処理とは違う良さがある。それを活かせる領域に進出していこうと思いました」。

「失敗からの再生」日本電鍍株式会社

技術力をベースに事業戦略を転換してV字回復に成功

時計分野に偏重していた事業を市場ニーズに合わせて修正するきっかけとなったのは医療器具のめっき加工だった。それまで他社では成功していなかった極めて高い品質が求められる加工だったため、技術開発には苦労した。社内の「できない」と言う声に対して、伊藤さんは「技術力はある。やってみよう」と励まし続けたという。


その末に開発に成功、本格生産に入ることができた。これまで培ってきた技術力が、他社にはできない仕事に結び付いたのだ。この成功経験が社員たちを奮い立たせ、また外部からは輝かしい実績として評価されることになる。それ以降、同社は高品質・少数・多変種加工を主とした医療や健康・美容領域、管楽器などの新領域に積極的に進出して売上を回復し、徐々に借金を返済しながら、設備投資に回せる内部留保となる利益を確保していけるようになった。


2003年、伊藤さんの社長就任から3年を経て、同社はそれまで十数年にわたる赤字から黒字へ転換した。その4年後には経済産業省の「元気なモノ作り中小企業300社」に選ばれ、さらに10年を経たいま、年間約9億円を売り上げる企業にまで復調。社員数も約70名にまで回復し、世代が交代して平均年齢は十数歳若返った。高齢技術者も現役で活躍する一方で全体的には若い世代が中心の会社に生まれ変わっている。


工場内を見せていただいたが、清潔な工場内には作業スペースだけでなく事務作業スペースにも椅子がない。立ち作業のほうが効率的なのだそうだ。空調の行き届いた加工ラインでは、多くの若いスタッフが各種のめっき槽の傍ら手作業で調整しながら、多様な色味の金属光沢を点検していた。


スタッフどうしの笑顔の会話に伊藤さんが割り込むと、笑顔のまま和気あいあいと会話が弾む。明るい雰囲気の中で一体感と信頼感が育まれている様子が感じ取れた。この工場はリニューアルしたばかりだが、今後は「式年遷宮」のように、加工ラインを時代変化に合わせて計画的にリニューアルしていくという。


「ここまで来るのに十数年かかりました」と伊藤さん。「社長就任当時は守旧的な考え方の高齢男性がほとんどで、私は毎日敵地に乗り込むような気持ちだったのですが、高齢でも新しいチャレンジに積極的な社員はいたし、私の考え方を応援してくれる社員も少なくはなかった。そんな社員に支えられながら、急速な変化を強制するのではなく、社員の意見を聞きながら、緩やかに仕事を標準化し、次世代に技術が伝えられるように会社を変えてきました。長くかかりましたが、やっと今アイドリングが終わり、未来に向けて走り出せる会社組織になったと感じています」。


かつての赤字続きの斜陽企業が、いまでは業界でも注目される勢いをもつ企業に生まれ変わった。日本の中小企業に今も息づいているモノづくりの伝統は、時代に沿った経営戦略を生み出せる後継者に引き継がれてこそ、将来に生き続ける。家を失い、かつての夢も捨てて、従業員のために経営を承継した伊藤さんが、今もまぶしいほどに輝いているのは、父親の夢を乗せた事業の明るい未来が見えているからに違いない。




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