父が築き守ってきたプロテック 「人のために」の理念を貫きたい プロテック株式会社 代表取締役 小松 麻衣氏
- 40-50代
- 北海道・東北
- 女性経営者
- 後継者
和歌山県にある、菱岡工業株式会社は、和歌山市内に本社、西浜と海南にそれぞれ工場を構え、電気機器・制御機器の開発設計・試作、ハーネス加工、板金加工、組立加工等の製造業を営む会社である。元幼稚園教諭で、現在菱岡工業の3代目として約20年社長を務め、一児の母として育児との両立もしている、岡田亜紀氏に話を聞いた。
20余年前、現役で幼稚園教諭をしていた岡田氏にとって、先代の社長である父親が突然亡くなったことによる事業承継は、まさに晴天の霹靂だった。
父親にかねて「女は嫁に行って幸せになるのが一番や」といわれて育った岡田氏。
「一度、『会社どうすんの』って聞いたことがあるんです。そうしたら、『そんなことお前ら心配せんでいい、誰かに任せるなり、閉めるなり、売るなり、なんとでもなる』と言われました」
それなら自分の好きな道に進もう、と保育科に進学した岡田氏。幼稚園の先生になって5年、26歳の頃、夫に急かされ出産を考え始めた。春(本年度末)で退職することを園長に伝えるはずだったまさにその日、父が突然53歳の若さで心筋梗塞で倒れ亡くなったのだ。
岡田氏はたまたまその当時幼稚園教諭をやりながら、菱岡工業の経理を手伝っていた。父が亡くなって約1週間後には支払日があり、やむなく会社に行ったその時だ。
「社員にガーッと囲まれて、『社長亡くなったばっかりでこんなこと言うのもなんやけど、これから、会社どないするつもり』と」
答えが見当たらなくてどうにかなるとは到底思えなかった。頭が真っ白になった。が、「何とかします!」と答えた自分がいた。
プライベートと社長業を両立させるための奮闘がこの日から始まった。しかし、当時の夫はこう言った。
「本当に子ども産んで子育てしながら会社経営なんてできるのか?出来るどうか、1年待ったるわ」と。毎日寝る間も惜しんで仕事をしていたせいで、半年経った時「もう1年待たなくても結果は見えたな。会社とるか俺とるかどっちかにしろ」と言われ、結局別れた。会社を棄てるという選択肢はなかった。
社員はどんどん辞めていった。中堅どころで唯一残ってくれた当時の工場長代理と岡田氏の二人で必死で事業を続ける、怒涛の日々が始まった。
周りの経営者に3年頑張ったらなんとかなるだろうと言われていた3年が経ち、やっと会社のことが見えるようになってきた頃、岡田氏の言うところの「大事件」が発生した。
菱岡工業は大手電機メーカーの下請けだが、当時、ライバル会社が2社あった。そのうちの1社が、破格の価格で受注したのだ。ありえないような低い価格だったが、その会社は何が何でもその仕事を取らなくてはいけないくらい追い詰められていたのだろう。しかし、案の定その会社は資金繰りに行き詰まり、操業を続けることができなくなってしまった。
困ったのは大手電機メーカーだ。菱岡工業にその仕事を引き継げるか打診してきた。3社の中で規模が最も大きかったのが菱岡工業だったからだ。ノーといえば他県の同業他社に仕事を取られてしまう。危機感を感じた岡田氏は、またもや勝算なく、大手電機メーカーに「何とかします!」と答えてしまった。
無謀な決断。しかし、やるしかない。腹をくくった岡田氏は、そのライバル会社の社員や設備等も使い、なんと2ヵ月ちょっとでその仕事をなんとか切り盛りできるようにした。この「大事件」を乗り切ったおかげで、大手電機メーカーの信頼を勝ち取ることができたのだ。
「『はっきり言ってあんなお姉ちゃん、また結婚して子どもできたら辞めるとか言い出すんちゃうかって思ってた』って後々言われました」と岡田氏は笑う。
しかし、幼稚園の先生がいきなり製造業に入り、一体どうやって仕事を覚えたのか?素朴な疑問に岡田氏はさらっと答えてくれた。
「人がどんどん辞めていくから、自分が現場に入るしかなく、とにかく体を動かしました。トラックに乗って納品行ったり、ラインでドライバー握って組み立てをしたりね」
簡単におっしゃるが容易なことではなかったろう。同時に岡田氏が取り組んだのは、資金繰りの改善だ。御多分に漏れず、当時の製造業は手形商売が普通だった。これを止めたい。銀行の借入を短期のものから長期のものに切り換え、手形は止めた。これによって設備投資計画も立てやすくなったのだ。
事業承継についての考え方も聞いてみた。同社の事業承継者はまだ決まっていない。岡田氏自身、まだ現役バリバリだし、子どもはまだ小さい。実際に子どもに継承するとしてもあと20年は待たねばならないだろう。先代の父親のことがあったので、いざという時の為に備えているという。
「あらゆるリスクヘッジの為、保険は片端から入っていますよ。(父が亡くなった時)何が一番不安だったって資金繰りなので、自分がいつ死んでも大丈夫なように準備しています。やっぱりお金があれば優秀な人材を呼び寄せることもできるし」
まだ建てて1年しかたっていない、ピカピカの新社屋の部屋で岡田氏はそう語った。
岡田氏の夢は壮大だ。
「将来、元気な高齢者と、 小さい子どもたちと、障がいのある人達と、社会的弱者と言われている三者が融合し、お互いを必要とし合い、支え合える施設を作りたいのです」
今はその準備段階だという。何故そんな夢を持つに至ったのか。その原点は、保育士の資格を取るために行った障がい児入所施設での実習だった。また、父が志し半ばで亡くなり、祖母がパーキンソン病を患ったことも大きく影響した。
まず、障がい者と高齢者に仕事を与えるために、 NPO 法人ジョイ・コム(就労継続支援事業A型の障がい福祉サービス事業所)の前身である株式会社ジョイ・コムを設立、飲食事業を始めた。
菱岡工業では14年前から、 障がい者が通う支援学校の生徒を実習生として受け入れていたが、その実習生たちを定期的に採用するようにしていった。今では12人がそれぞれの能力を活かし製造現場で活躍している。
70歳以上の高齢者もたくさんいる。菱岡工業を創業した岡田氏の祖父が94歳まで会社にいたこともあり、定年は60歳と定めてはいるが、「元気で働きたいという人は安全に通勤ができるならいつまでも来て」と言っているそうだ。
岡田氏が夢を追求してきた結果、今風にいう「ダイバーシティ」のある職場環境が徐々に出来上がっていった。
そんな岡田氏が障がいのある人達でも運営できる規模の飲食店、カフェを作ろうと思いついて始めたのが、「和歌山発 チョコレート専門店toco*towa(とことわ)」だ。とことわとは常(とこ)と永遠(とわ)を組み合わせた造語だという。NPO法人ジョイ・コムの障がい者の分場でもあり、現在1号店、2号店がある。
東京の第一線で活躍しているショコラティエと出会い、和歌山の豊かなフルーツや特産品を活かしたチョコレートを作ろう、と試行錯誤した。その結果なんと、日本が世界に誇る“おもてなし”を実践する人や企業、商品・サービスに与えられる「おもてなしセレクション」で金賞を受賞するまでに至ったのだ。
今後取り組んでいきたいのは子どもの食育。
「子どもの心身を育むための重要な食事。自分たちが育てたものを自分たちで食べることで偏食の子どもが減ると思って、元気なお年寄りと一緒にお野菜や小動物等を育てて、一緒に給食を作る」ことを考えている。なんだかとっても楽しそうだ。既に去年、企業内保育園(企業主導型保育事業)が開園している。その名も「わっしょい保育園」。「和(日本)を背負う子どもたち」の保育園という意味を込めて名付けられた。
岡田氏の夢は更に広がる。シングルマザーのシェアハウスと元気なおじいちゃんおばあちゃん達の家と障がい者のグループホームを敷地内に建設したいという。来年春からは海南工場の敷地で市場価値の高いものを農作・加工していく予定だ。一体、この人のどこにこんなエネルギーが隠されているのだろう。
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エヌエヌ生命では、先代の逝去等による突然の事業承継で経営者になった方々を支援する様々な取り組みを行っています。各取り組みは、以下のリンクよりご覧いただけます。