父が築き守ってきたプロテック 「人のために」の理念を貫きたい プロテック株式会社 代表取締役 小松 麻衣氏
- 40-50代
- 北海道・東北
- 女性経営者
- 後継者
明治中期に秋田で鋳物製造を始めた武藤工芸鋳物は、武藤元社長で5代、約130年続いている。主力製品は高速道路やトンネル、橋などに着けるネームプレート、鋳造銘板の製作だ。6代目を承継する予定のアトツギ武藤元貴氏は、この鋳物の技術を使った点字焼印を使って公共施設などに点字を後付けでできる工法を思いついた。まだまだ行き渡らない点字を、耐久性が高く、しかも安価な点字焼印で普及させるために、あらゆる機会をつかまえて知ってもらう活動を展開している。
家と地続きの工場で祖父や父が働く姿を見ながら、育ってきた。
「工場の片隅で遊びながら、いつか自分もやってみたいという思いがありました」
こういうものを作りたいという声や持ち込まれた図面から、型を作り出し金属に変えていく鋳物製造の仕事をかっこいいなと思っていた。
「何もないところから、形を生み出す魔法のような仕事です。だから祖父も父も地元の人から頼られて、一目置かれているんだなと感じていました」
みんなから、感謝されているその姿がまぶしかった。
「祖父は工芸作家と組んで、秋田から何か生み出せないかという取り組みをしていました。父は、技術力でどんな難題も鋳物で解決し、施工してしまう。その姿に憧れましたね」
モノづくりで困っている人がいたら、とにかく助けてあげるというその仕事の姿勢は、一貫して武藤工芸鋳物に受け継がれてきた哲学だ。
「祖父が作って残したものを見ると、業で人に寄り添うものを作ってきたんだということがよくわかります」
しかし、斜陽産業と言われている鋳物の世界に両親は息子を呼び込もうとはしなかった。
「このままでは厳しいというのは、誰もがわかっていたことでした。なので新しい道を自分で見つけなさいと言われていると感じて、いったん東京で働くことにしました」
バイオエタノールの研究がしたいと無理を言って大学院まで進学した。
「高校の時に捨てられる稲わらからバイオエタノールという燃料が作られるというのを知って、これこそ取り組むべきことだと思いました」
ここには地元、秋田に対する思いの深さがあった。
「目の前が全て田んぼという中で育ち、毎年大量に捨てられる稲わらを見ていたので、これは秋田のためになると思ったのです」
しかし研究に一区切りがつき、これ以上進展させるのは、自分には無理だとけりがついた。
「そこで次にイベントサービス業に転身しました」
ここでも、秋田愛が根っこにあった。
「東京で秋田のことを話すと、そういうのいいねとか、そんなものあるんだと言われます。だからもっと秋田の文化や食べ物を伝えることで、秋田が理解されるんじゃないかと考えました」
もともと同窓会の幹事や懇親会などの取りまとめをするのは得意だった。これには東北三大祭りの一つ、秋田竿燈まつりに小さいころから熱心に取り組んできたことも関係している。
「祭りの集まりは、当たり前ですが伝統を重んじる縦社会。そこでいかに気を利かせて率先して動くかが大事です。そこで祭りの段取りを覚えたことで、すごく世界がひろがりました」
しかし、いざイベントを仕事にしてみると予算と自分の思いや時間がかみ合わないという現実がのしかかってきた。そこでまた別の道を探すために半年のフリーター暮らしを経験した。
「そのときに父が見かねて、秋田産業技術センターに鋳物の新しい装置が入るから、そこで勉強して、家業に生かしてくれないかと口実を作ってくれました」
くすぶっていた自分をうまく呼び戻してくれた父に、今でも感謝している。
25歳の時に家業に戻って、ゼロから修行を始めた。
「まず掃除から始まって、あとは工程を一度教わったら、自分で見ながら手を動かしていくんです。見て技を盗めって感じですね」
もともと手先は器用なほうではない。祖父の時代からいる職人さんと父親に認められるまでに3年の年月が流れた。
「ある日、やってみるかって銘板づくりの一部の工程を任されたのです。その巡ってきたチャンスにきちんと応えられるかどうかがテストみたいなものでした」
翌日、何も言わずにまた仕事を任されて、合格したことを何となく感じた。
「作れるようになると楽しいんですよ。だから、やっときますってどんどん仕事を取っていきました」
そんなある日、地元の障害者施設に勤める同級生からeスポーツの普及を手伝ってほしいと声がかかった。
「今まで知らなかった視覚障害の方の世界を知り、鋳物で何かお手伝いができないかと考えました」
同じころ大手ECサイトにオリジナル焼印制作の店を出したこともよいタイミングになった。
「HP代わりに出店するけど、そんなにニーズはないだろうと思っていたら、思いがけず大工さんやパン屋さん、クリエイターの方とかから結構注文が来るんです。そこで焼印の需要の高さを感じました」
そして東京オリンピック・パラリンピックにむけて、町工場でもできることがあるという声を聞き、自分も何かできないかと思ったときに、点字焼印をひらめいた。
「焼印の点字部を凹ませて、熱して木材に押すと、点字が黒く浮き出るのです」
既成の施設によく、テープなどで点字が貼ってあるが、耐久性がなく劣化してしまう。金属プレスや樹脂印刷は、耐久性はあるが、高価だ。
「その点、点字焼印なら4000円からと安価に作れて、既製品に何度でも点字を刻むことができるのです」
点字焼印を公共施設の手すりや、店舗の食器や調味料入れなどに押すサービスも含めて、事業化を考え、アトツギU34のピッチで発表した。
アトツギU34では、社会性を評価してもらったが、まだまだ事業化するまでに至っていない。
「さまざまな施設や自治体に働き掛けてはいるのですが、まだまだです。経営者の集まりなどに呼ばれた時に話をするなど、少しずつ広めています。やはり最初の仕事は秋田から出したいという気持ちが強いので、ここでまずは頑張ってみたいのです」
アトツギU34のメンバーには常々刺激を受けている。
「大阪をはじめとする関西の方や九州の方と話せるのが、とてもいいですね。やはり商人として育ってきた風土が違うんだと思います。その仕事がお金になるのかとずばり聞かれると、驚きますね。売っていく方法などのアドバイスはとても勉強になっています」
父からの事業承継も、職人のメンターの方の話が心に響いた。
「職人の親を持つ者同士、最後に親が職人として叶えたいと思っていることをさせてあげてこその事業承継、それが職人としての父子の付き合い方だという話に深く共感しました」
モノづくりというのは、一生かけてやっていくものなのだという。だから世間の事業承継の形式や考え方にとらわれたくはない。
「職人は見て学ぶという文化があります。これは製法を教えるには遠回りかもしれないけれど、人間を鍛えて育てるためにはすごくたけているんです」
結局、見て学べないということは、仕事に集中しておらず、よくなりたいという意思がないからだという。
「古いって言われるかもしれないけど、表面ではなく、根っこのよいところを自分でも外したくはないし、ちゃんと残していきたいですね」
焼印で押した点字に触れた視覚障害者の人に「この点字にはぬくもりがある」と言ってもらえたことが忘れられない。
「これからもいろいろ新規事業を考えて、仕事をどんどん生み出したいと思います。それもただ仕事をするのではなくて、ありがとうと言ってもらえるような仕事を、です」
お客さまの声をお聞かせください。
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