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経営のヒント

「ド・ローカルもグローバルも頑張りたい」
山上木工 3代目 山上 裕一朗 専務取締役

  • 20-30代
  • 製造業
  • 北海道・東北
  • 後継者

この記事は9分で読めます

北海道網走郡津別町に「ド・ローカルから世界へ」を目標に掲げる木工所があると聞いた。それが株式会社山上木工だ。最新鋭の同時5軸NC(数値制御)工作機械を使った特殊加工を軸に、自社プロダクト『ISU-WORKS』などを製作している。

地方の小さな木工所が世界にチャレンジしているという。どんな会社なのか。早速、話を聞きに北海道に飛んだ。

女満別(めまんべつ)空港から車を30分ほど走らせると、山上木工のショールームである「TSKOOL(ツクール)」が見えてきた。周囲は畑で一面緑の中、黒く塗られた壁とコンクリートの正面の建物はいかにも目立つ。

山上木工

サイドに回り込むとそこがいかにも学校らしい建物である事が分かる。聞けば、地元の旧・活汲(かっくみ)小学校の廃校をリノベートしたという。どうりで中が広いはずだ。ゆったりとしたスペースが広がり、モダンな椅子がずらっと並んでいる。

私たちを迎えてくれたのは3代目の山上裕一朗氏。家具作りにかける熱い思いを聞いた。

なぜ家業に戻ったのか

戦後住宅の需要と共に建具を生業として事業を興したのが裕一朗氏の祖父だ。2代目の父はNC(数値制御)工作機械を積極的に導入した。35年も前のことだ。先進設備に投資するのはかなり珍しかった。その結果、木工製品の精度がぐんと高まり、大手住宅設備会社の孫請けとして、部品を1日何万個と増産するようになった。

父親からは好きなことをやっていい、と言われてきた裕一朗氏。都会を目指し、高校は北見市へ、そして大学は東京に行った。そこで機械工学を学んだ。

「なんとなく親父に対しての憧れがあったのかな。最新の機械を使ってものづくりをしている姿がかっこいいなって思ってたんですよね」。

山上木工 3代目 山上 裕一朗 専務取締役の写真

バリバリ働く父親の背中を知らず知らずのうちに見ていたのだろう。

大学卒業後は、大手工作機械メーカーのDMG森精機に就職した。しかし、入社して間もない頃は自らの能力不足で失敗をすることも多く、自分に対する絶望感で非常に苦しんだ。

これが人生初めての、そして最大の挫折だった。

しかし、時間の経過とともに、機械について学ぶことを楽しんでいる自分に気が付く。

「仕事はスポーツと一緒で、最初はうまくいかない。でも同じことをずっと毎日やっていったら上手くなるんですね。サッカーのリフティングだってそうじゃないですか」。

職場で腐らずに製造と設計を一生懸命経験したのが、所属部門の中で唯一裕一朗氏だけだったため、一人で海外の顧客の所へ出張することが増え、多くの経験を積ませてもらった。結果、他の人にはない武器を持ったことに気づいた。

26歳で社内結婚し、すでに子どもも授かっていた。30歳目前。全てが順調に思えた。

色々と今後将来を考えるようになったとき、ふと父へ電話をかけた。

納期が厳しい仕事で土日も働いていることを聞くと、
「今の俺なら親父の助けになるのではないか」と「根拠のない自信」が湧き上がってきた。

家業に戻って

当時50代後半だった父親の力になりたい、そう思って家業に戻ったが、大手メーカーと零細企業での考え方や仕事のやり方の違いを理解せず、リスペクトを欠く態度を取り続けてしまったゆえに父親とのバトルは絶えなかった。

裕一朗氏が家業に入ってから20人いた従業員も5人が辞めていった。自分が否定されたような気持ちになり、人生2度目の挫折感を味わう。

しかし、ここで前の会社でどん底から這い上がったことを思い出した。あの時に比べたらたいしたことないじゃないか。きっと乗り越えられる。

「挑戦し続けよう」。そう気持ちを固めた。家業に戻って来てから3年経っていた。

山上木工 3代目 山上 裕一朗 専務取締役の写真

オリンピックメダルケース誕生

裕一朗氏のもとにひょんなことからこんな話が舞い込んできた。

「オリンピックのメダルケースのコンペがあるんだけど、応募してみたら?」

裕一朗氏が「とにかく何でも挑戦したい」、と普段から周りに話していたことを小耳にはさんだ知人が教えてくれたのだ。2018年の秋のこと、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会が公募した「メダルケースの製造委託契約」がそれだった。

なんとその話を聞いたのは応募締切日の10日ほど前。普通に考えて無謀な挑戦だ。普通は「間に合わないな」と諦めるところだろう。が、裕一朗氏は違った。「とにかくやるしかない!」とすぐさま動きだした。

まず連絡を取ったのは、旧知のデザイナー、吉田真也さん(株式会社SYD 代表取締役)だ。デザインを依頼した。これまでも一緒にものづくりをやってきた吉田さんなら信頼できる。そこから怒涛のやり取りが始まった。朝、吉田さんからデザインが送られてきたら、すぐに試作品製作にとりかかり、最終便で千葉に住んでいる吉田さんに送るのだ。彼に妥協の二文字はなかった。作った試作品はなんと200個。

実はこの挑戦、父は反対だった。

「そんなもの取れるわけないんだから、余計なことすんな!仕事、仕事!」と目の前のことだけをやれ、と言われた。

しかし山上氏は諦めなかった。

「会社のためだと思って僕はチャレンジしてるから父が帰った後、夜寝ないでやってました」。

大変だったのは、メダルがケースにピタリと収まり、自立してそのままディスプレイできるデザイン。本体と蓋に磁石を2個、蓋の中に埋め込み、磁力でくっつくようにした。磁力が強すぎても弱くてもだめ。ミリ単位の位置の違いでくっつかなかったりするので、調整にはとてつもない時間を要した。そうした努力が報われるときが来た。

第一次選考の締め切りまでのリードタイムはわずか2か月間。第一次選考に通ったら二次選考、立体検査と続いた。12月になって、メールが来た。

タイトルは「落札候補となりました」。

その時の父の反応。

「ほら、落ちただろう」。

「落札」を「落選」だと思ったのだ。

「ちがうよ、親父!逆だよ。落札候補っていうのは内々定したってことなんだよ!」

「え?」

事務所中に、「うわっ!」と歓声が上がっただろうことは想像にかたくない。

今聞けば笑い話だが、そのあとさすがに父も一緒に喜んでくれた。

「そこから結局親父は、なんか、ちょっと変わった感じがしています。少しだけ認めてくれたという感覚はあるかもしれませんね」。

そして合計5400個ものケースを納期までに製作できたのも、父が設備してきたNC工作機械を利用したおかげだ。最終工程の磨きや塗りも、父の手を借りなければできなかった。職人としての父の偉大さを改めて認識したのだ。

山上木工 メダルケース

モノづくりへのこだわり

現在39歳になり、裕一朗氏の挑戦は加速している。

2018年にはショールーム兼アンテナショップの「TSKOOL(ツクール)」を立ち上げた。学校「SCHOOL」、オホーツク「OKHOTSK」、ものづくり「MONOZUKURI」をかけあわせた造語である。

自社プロダクト『ISU-WORKS』をはじめとした椅子やテーブル、オーダー家具の数々を展示、販売している。

山上木工

正面玄関を入るとすぐに目に入るのが、旧・活汲小中学校の校章だ。

真ん中に「活」の一文字がある。

「活動の『活』という漢字は、この歴史ある校舎を活かしていくという気持ちを込めて、ここに飾っています」と決意を語ってくれた。また、ロゴのTSKOOLの「OO」の部分は門が開いているような意匠にした。創業以来山上木工は建具業を生業としてきた。門を開くことで津別町に人を呼び込むきっかけの場所を目指したい、という思いを込めた。

TSKOOL life with woods CHAIR,TABLE and ZAKKA

図)TSKOOLのロゴ
©TSKOOL

「施設を津別町からお借りしている立場上、町に恩返しをしたいということで、木工業を通して、人を呼び込むきっかけ作りができないか、と深く考えるようになりました」。

山上氏が描いているのは「TSKOOL2.0」。今は、「TSKOOL1.0」の段階だ。まずは、人を呼び込み認知度を増やす。

「TSKOOL2.0では、大人の木工教室をやりたいですね。半年とか1年とか通ってもらって、僕たちプロと一緒に家具とか椅子とかテーブルとかを作ってもらいます」。

津別町にはゲストハウスや民泊もあるので滞在が可能だ。オホーツクエリアには海の幸山の幸が豊富な観光スポットもたくさんある。色々な事業者と連携し、地域おこしをしていく「産業観光(クラフトツーリズム)」構想だ。インバウンドも当然視野に入れている。

図)山上氏のLIFE STORY

海外事業

現在山上木工は、香港、フランス、シンガポール、台湾、カナダの5カ国に家具を輸出、香港ではコンスタントに毎月30〜40脚の椅子が売れている。香港人のオリバー(TSE SHING HIN)氏の尽力もあり、「海外でも売れる」という自信がついたという。

目標は、輸出先を2030年までに10カ国に増やすことだが、順調に進んでいる。実際、海外からの問い合わせは増えている。

また、山上木工の海外展開で取引先各国のエージェントのつながりを利用することで「日本の素晴らしいものを日本中・世界中に届けたい」というコンセプトを掲げ、2020年に「株式会社The Goods(ザ グッズ)」を立ち上げた。先のオリバー氏はこの会社の専務も務める。

家具を中心とした貿易仲介業の展開とR&D(研究開発)、そして家具月額サブスクリプションサービス事業(オホーツク限定)の3本柱で、オホーツクからグローバルに事業を展開する。

現在、The Goodsは札幌にも拠点を設け、北海道の良いものを仕入れて、海外のお客さまに届けるビジネスを強化している。

現在は木の名刺入れなど小物、環境に優しい石鹸、以前取材した環境大善(「牛の尿で地球を救う」環境大善株式会社 代表取締役社長 窪之内 誠 氏 | エヌエヌ生命保険 : 法人・中小企業向け保険 (nnlife.co.jp))の消臭剤「消え〜る」なども扱っている。

今後の事業展開

山上木工は「ド・ローカルから世界へ」というスローガンを掲げて立ち上げた。

グローバルに軸足を置くのかと思っていたが、そうではないようだ。ローカルもグローバルも両方しっかりやりたい、と裕一朗氏はきっぱり。

「欲張りかもしれないですけどね」。

山上木工 3代目 山上 裕一朗 専務取締役の写真

ド・ローカルも大事にしつつ、世界にも引き続き挑戦できたら、と考えている。

実は裕一朗氏がローカルにこだわるのには2つの強い思いがある。

ひとつは後輩たちに「田舎でも戦える」ということを伝えたい、という思い。同じ志を持つ、さまざまな業種の後継ぎたちと連携を取って情報交換している。

もうひとつは、「津別町の人口減少を少しでも抑えたい」という思いだ。新しく人を採用する時、できる限り津別町に住んでもらうことを条件にしている。人口減に悩む地元の少しでも力になれれば、と思っている。

後継、そして承継

自身の後継については着実に準備している。

「Uターンしてから、ただがむしゃらに仕事に取り組んできましたが、その挑戦を応援してくれる大切な仲間が会社にいます。共感してくれる仲間をこれからも増やして津別から全国世界へ挑戦し続けます」。

むろん2人いる息子のことも気にかけている。

「僕も親父に(承継について)言われてないから、僕も息子に言うつもりはないんですけども少し意識はしています。息子たちにもしやってもらえるんだったら、うれしいなと思ったりしています」。

ローカルもグローバルも欲張りたい。まだまだ若い裕一朗氏。2人の息子に今度は自分の背中を見せ続けていくつもりだ。

山上木工 3代目 山上 裕一朗 専務取締役の写真

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