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私たちの事業承継#5
世代をこえてつなぐバトン 父から母へ、母から子へ


岩永 光子さん、美香さんの写真

アポロアイシーティー株式会社 取締役会長 岩永 光子さん プロフィール写真

アポロアイシーティー株式会社 取締役会長 岩永 光子さん

1937年茨城県出身。先代である旦那さまが1997年にソフトウェア開発会社である有限会社岩永情報工業を開業。翌年11月に創業者である先代が逝去すると事業を承継し、
60歳にして専業主婦から突然社員を3名抱える会社の社長に就任した。16年間会社を守り続け、2014年に子の美香さんに事業を承継した。現在は会社の経理を担当している。

アポロアイシーティー株式会社 取締役会長 岩永 美香さん プロフィール写真

アポロアイシーティー株式会社 代表取締役社長 岩永 美香さん

1964年茨城県出身。水戸市役所に30年間勤めた後、2014年に事業を承継した。1997年に父から事業を承継した母を支え続け、自社製品の 「KOSEKIガイド」の製作に尽力。母から事業を承継した後、社員20名の企業に成長させ現在も拡大をしている。


突然の事業承継にまつわるエピソードをお聞きする「私たちの事業承継」。第5回目にご登場いただくのは、システム開発会社を展開するアポロアイシーティー株式会社にて現在も同社の取締役会長を務める岩永 光子さんと、代表取締役社長を務める、岩永 美香さんのお二人です。

―先代が起業されてから光子さんが承継するまでの経緯を教えてください。

光子会長:主人が定年間際に、とある社長さんから「うちを引継いでくれないか」と頼まれて話を聞きに行ったら、突然起業すると言いはじめたのです。
話を聞いて、自分でもできると思ったようです。

美香社長: 私は父が起業することには反対でした。大変になるのは目に見えていましたからね。それなのに両親そろって起業したいと言いだして。
起業するのだろうなと思ってみていました。

光子会長:そうしたら、起業してすぐに主人が病気になってしまって…

美香社長: 仕事はいくらでも取れるのに作業する社員がいませんでした。それがすごいストレスだったのだと思います。いつも悩んでいました。
入社の人の目途が少しついて、その人を頼っていたら、「やっぱり違うところで働きます」と言われ相当心が折れていましたね。
そんな状況の中でスゴ腕技術者が一人入社してくれることになり、本当にうれしくて気が抜けて病気なったような気がします。

光子会長:病名は不明です。熱が急に上がったと思ったら一気に下がって寒くなる病気でしたが、最後まで何の病気だかわかりませんでした。
病名もないので絶対に治るものだと思っていました。重症というのはわかっていたのですが、死というのは全然意識していませんでしたね。
大学病院で多くの検査を受けた時も、お医者様から「こんなツライ検査に良く耐えてくれた」と言われ、痛がりの人だったのに頑張っていましたが、看護師である下の娘の看護を受けつつ亡くなりました。

美香社長: ─父が亡くなる間際に、会社を続けてくれと言われたのでしょう?

光子会長:そうですね。今思い出しました。入院で付添のために病院に行った時に、病室で主人から「会社を継いで欲しい」と言われました。
自分では死が近いのを悟っていたのでしょうね。私の中では治ると信じていたので、何を言っているのだろうとその時は思っていましたね。

美香社長: 父が亡くなった際に、根気強く検査をしてくださったお医者さまが「助けたかった」と泣いてくださったのはすごく印象深いですね。
亡くなった後の手続きは病院ということもあり自動的に進んでいきましたね。悲しむ暇もないです。後から後からこれやって、次これやってと言う感じでした。 いろいろな手続きや家に連れて帰る段取りですね。

光子会長:会社のこともありましたし、亡くなってから気持ちの面では悲しみにくれている暇は無かったですね。
主人が亡くなってすぐに社員さん一人一人と話して、「私は経理をやりますので、皆さんはやりたいお仕事をやってください」とお伝えしました。

美香社長: 私が会社のことを考えたのは、父の葬式などが一段落した後です。「父さん、会社どうするの?」と遺影の前で言ったことを覚えています。
その夜、寝ていたら夢の中で父から「よろしく」と言われました。本当に現実的な夢でしたね。それで母を支えていく覚悟ができました

岩永 美香さんの話している写真

―引継ぎなどはありましたか?また、引継いでから何をされましたか?

光子会長:亡くなると思っていなかったので、引継ぎはありませんでしたね。ただ、パソコンの中に今後の運営方針がありました。
社員を増やして、給料はこのようにして、賞与はこのくらいなどが残っていました。けれども、それは大企業のやり方でとてもとてもできるものではありませんでしたね。

美香社長: ですので、母が会社を継いだ時にまずは就業規則を見直してと言いました。大手より手厚い就業規則でしたので。
それを伝えたら全部母が見直しをしていましたね。何もわからない中でよくやったなと思いますね。

光子会長:あとは、ひたちなか市のIT協議会という40~50社くらいの会社の集りには必ず参加するようにしていました。
そこで、経営でわからないことを隣の人にどうしているのか聞くようにして。今思うとそれはこの子が継ぐまでの土台作りだったように思います。

―承継して大変だったことはありますか?

光子会長:私は意気込みだけで会社を引継いだので、大変という思いはあまりありませんでしたね。

美香社長: 本格的に事業が始まる前に病気になってなくなってしまったので、母にはあまりプレッシャーはなかったのかもしれないですね。
母が引継ぐとなった時に、経営のストレスは私が引き継ぐのだろうなと思っていました。

光子会長:お金の面で大変だったのは賞与を払う時ですね。主人が大企業並みに多く払うと決めていたので、払わないといけないと思い毎回大変でした。

美香社長: リーマンショックの時でさえ、賞与をいっさい下げなかったのですよ。売上がないのに、なぜ賞与をこれまで通りにあげているのか。
うちはボランティアの会社なのかと思いましたね。一時ですけど、私が役所から頂いた賞与をそのまま会社に入れていたこともありましたし…。

岩永 光子さんの話している写真

―美香さんが承継された経緯を教えてください。

光子会長:今から5年位前からそろそろ承継しないと思い、まず社員に声をかけましたが「僕はちょっと」と断られてしまい。
同業者の営業の方などで良い人がいればと、お声がけはしたのですが、なかなか引き受けて下さる方はいませんでした。
そうしたら、この子が覚悟を決めてくれたのです。

美香社長:一度きりの人生だから自分の力を試したい、会社に思いっきり力を尽くしてみたいと思い、母に会社経営をしたいと伝えました。
ただ、母からは「安定しているのになぜ公務員をやめるの」と最初は反対されましたけど。

光子会長:引継いでくれなかったら、会社をたたもうかと思っていました。

美香社長:そうなの?はじめて知りました。ただおかげさまで、私も今では会社が生きがいになっています。ただおかげさまで、私も今では会社が生きがいになっています。趣味が会社経営みたいなところもありますからね。当初は経営を甘く見ていた部分もあったのでしょう。
お金の工面で駆けずり回り、役所を辞めてまで会社を継承したのに、もう倒産するのか…などと夜も眠れない日もありました。
現在は経営の勉強はもちろんですが、この会社を良くするためにどのスポーツをやろうかとか、旅行に行くにも会社の経営を良くするために行く…みたいに、全てが会社の経営につながるというくらい、一筋の方向を向いて楽しく会社経営に尽力しています。
そんな会社の土台を作ってくれた父と、守り続けてくれた母に感謝しています。

岩永 光子さん、美香さんの写真

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